「比叡山延暦寺の現地研修で学ぶ、世界遺産(文化遺産)の意義と問題点について」
学籍番号:31752010
氏 名:酒井 健次
世界遺産の登録の意義
比叡山延暦寺は、1994年「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」として、ユネスコの世界遺産に登録された。
しかしながら、ユネスコ及びその諮問機関であるイコモスの文化遺産に対する登録基準が曖昧であった為か、日本が主張した内容について認められていない点があり、満足できる評価内容ではなかった。
これについて考察する。
ユネスコの世界遺産登録基準の功罪
日本と欧州との文化の違いが如実に表れている。
欧州は言うまでもなく石の文化であり、ここで対比する日本は木の文化である。
日本は自然災害が度々発生し、それに対応する独自の文化を発展させてきた。日本には独自に制定した「文化財保護法」がある。明治維新の廃仏毀釈の風潮を経て、先祖伝来の文物を保護する機運の高まりにより、近代日本においては文化財の保護がごく当たり前に国家事業として行われてきた経緯がある。
発足当初のユネスコの基幹は国際連合の戦勝国、且つキリスト教系の欧州先進国である。国家総力戦となった2度の世界大戦を経た反省により、1954年に採択されたハーグ条約「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約」が元となり、1972年に採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)として制定されていく。
文化財保護という言葉の上では同じ様でも、そもそもの価値基準が異なる異文化との交流や融合には最初から無理な点があったのではないか。
1993年、最初に世界遺産(文化遺産)に登録された「法隆寺地域の仏教建造物」について、日本が提出した「世界遺産一覧表記載推薦書」を見ると、価値基準(i~iv、及びvi)の5種を主張しているが、(iii)が認められていない。
同年に登録された「姫路城」も価値基準(i、iii及びiv)の3種を主張しているが、(iii)が認められていない。更に、翌1994年の「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」においては、価値基準(i~iv及びvi)の5種を主張したが、(i、iii、vi)の3種が認められないという結果となっており、当時の学界の憤りが見えてくるようである。
「顕著な普遍的価値」の変遷
日本は運が良いのか悪いのか、加盟したこの時期にユネスコも転換期を迎えていたのである。
1994年6月、パリのユネスコ本部で開催された「代表性のある世界遺産一覧表のための『グローバル・ストラテジー』及びテーマ別研究に関する専門家会議」で問題点が提起され、更に同年11月、奈良で開催された「世界文化遺産奈良コンファレンス」において、「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」がまとめられ、同年12月にタイのプーケットで開催された「第 18 回世界遺産委員会」において、「世界遺産一覧における不均衡の是正及び代表性、信頼性確保のためのグローバル・ストラテジー」としてまとめられた。
こうして欧州人に文化遺産の多様性を認めさせる事に成功したのである。
”グローバル・ストラテジーにおいては,[1]欧州地域における遺産,[2]都市関連遺産及び信仰関連遺産,[3]キリスト教関連資産,[4]先史時代及び20世紀の双方を除く歴史時代の遺産,[5]優品としての建築遺産,などの登録が過剰に進んでいるとの認識が示され,このような登録遺産の偏重は文化遺産の多面的かつ広範な視野を狭める傾向を招き,ひいては生きた文化(living culture)や伝統(living tradition),民俗学および民族的な風景,そして普遍的価値を有し,広く人間の諸活動に関わる事象などを対象から除外する結果となっていることが確認された。”
(文化庁サイト:「グローバル・ストラテジー」について (http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/bunkazai/sekaitokubetsu/shingi_kekka_190123/betten_2.html)より引用)
このような経緯を経て、1998年に世界遺産に登録された「古都奈良の文化財」においては、(ii~iv、及びvi)の4種が主張され、漸く主張の通り世界遺産に登録されることとなったのである。
(参考文献・サイト)
[1]講義時テキスト、及び資料
[2]佐滝剛弘 「世界遺産」の真実 祥伝社(祥伝社新書) 2009年
[3]文化庁サイト:世界遺産(http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/sekai_isan/)