第十一番札所 深雪山 上醍醐 准胝堂 (醍醐寺)
2016年5月17日の記事(改訂版)
5月13日
晴れの一日の天気予報通りに天候に恵まれ、 帰ってきたら真っ黒に日焼けしたほどです。
大変広い境内や下醍醐の豪華な伽藍の数々に目を奪われつつ、上醍醐では山登りまで堪能できて、大変充実した一日でした。
上醍醐の山上まで行くとなると、キツイ山道になるので、きちんとした装備で行かれるようにお願いします。必ず下醍醐でトイレを済ましておいたり、売店や自動販売機などもありませんので、水分とおやつの準備は必須かと思います。虫刺され対策や熊除けの鈴、途中で蛇にも遭遇しましたので、肌を出して歩くのは慎まれた方が良いです。
往路
予定より少し遅れて出発しました。
そしたらショッピングセンターのアル・プラザ醍醐のど真ん中です。
醍醐駅は駅ビルが発達しているというか、でか過ぎて、初めて来た人からすると、どこに何があるのやらわかりませんよ(笑)
とりあえず、朝ご飯が食べれそうな喫茶店を探したんですが、 あんまりよくわからず・・・。
仕方ないので、駅前の道を南に行けば何かありそうだったので行ってみると、偶然、牛丼の吉野家(外環状線醍醐店)を発見しました!
こちらで牛丼の並に玉子を混ぜて頂きました。
久しぶりに吉野家に行きましたわ(園田には店が無い)
醍醐寺へ
お腹が満ちたので、醍醐寺へ向かいます。
駅からはアル・プラザ醍醐の2Fから住宅地を抜けていくと、 徒歩では近道になります。
徒歩10分弱で、醍醐寺が見えてきました。
ちなみに奥に見える山が、この後登ることになる醍醐山(笠取山)です。
総門と呼ばれる、醍醐寺の入り口です。
総門の脇には色々書かれたものがありました。
醍醐寺
真言宗醍醐派の総本山で、平成六年(1994)に世界文化遺産に登録された。山上の上醍醐と山下の下醍醐から成る壮大な寺で、天暦五年(951)に完成した京都府域最古の五重塔(国宝)をはじめ、四万点にも上る多くの国宝や重要文化財を有している。
平安初期の貞観十六年(874)に理源大師聖宝(りげんだいし しょうぼう)が、笠取山(上醍醐)に登って観音像を彫刻し、安置したのが当寺の始まりとされており延喜七年(907)に醍醐天皇の勅願寺となり、次第に大伽藍が整えられた。
応仁の乱や文明の乱により、五重塔を残してすべて焼失したが、慶長三年(1598)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が北政所(きたのまんどころ)らを醍醐の花見に誘ったことをきっかけに、秀吉の厚い帰依を受けて復興された。
本堂の金堂(国宝)は、慶長四年(1599)に紀州(現在の和歌山県)湯浅の満願寺から移築したものといわれ、三宝院(さんぽういん)庭園(特別史跡及び特別名勝)は、華麗で豪華な桃山時代の庭園で、秀吉の権勢をしのばせている。霊宝館には、薬師如来坐像(国宝)や秀吉所用の黄金天目茶碗などが収蔵されており、毎年春と秋に公開されている。
毎年四月第二日曜日には、千三百人を従えて盛大に行われたとされる当時の花見に倣って「豊太閤花見行列」が行われ、多くの人で賑わう。
醍醐寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機構)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになります。
醍醐寺は、伽藍が山上と西麓の平地とに分かれており、山上伽藍は貞観十六年(874)に、平地伽藍は延喜四年(904)に整備が始められたと伝えます。その後たびたび火災に遭い、16世紀末から17世紀初頭にかけて現在みられる姿に復興されました。
山上伽藍の薬師堂は、保安五年(1124)に再建されたもので、平安時代初期の礼堂をもたない仏堂の規模・様式を伝えています。また鎮守社清瀧宮拝殿は、永享六年(1434)に再建された懸造の建物で、意匠的には住宅風に仕上げられています。
いっぽう平地伽藍のうち、天暦五年(951)に建立された五重塔は、年代が明らかな建物としては京都における現存最古のもので、その規模は雄大で安定感があり、また初層内部に両界マンダラを描く点に密教寺院としての特色がみられます。金堂は、慶長五年(1600)に紀州満願寺の金堂を移築したもので、平安時代末期の仏道の様式を残しています。三宝院の表書院は、豊臣秀吉による慶長三年の花見に際して増改築されたもので、寝殿造りの様式が取り入れられており、またこの横に広がる庭園も秀吉が直接指揮して造らせた豪華なもので、池泉回遊式と枯山水が折衷されています。
総門を入ると、真っ直ぐに仁王門が見えます。
三宝院
総門を抜けてしばらく行った左側に受付があります。
こちらで三宝院と下醍醐を合わせた拝観料1000円をお納めします。
例の「DAIGOJI FUN! CARD」は、門を入ってすぐ左側に売店があるので、こちらで購入できました。
iPhoneにダウンロードしてあった京都醍醐寺ナビのアプリを立ち上げ、カードの裏側のQRコードを読ませたら簡単に登録完了です。
とにかく境内が広すぎるので、地図があっても戸惑いますから、ガイド機能は重宝すると思います。
醍醐寺のチェックポイントのスタンプ集めをしたり、なかなかいい感じに作られていると思います。
但し難点があり、iPhoneのカメラで普通に写真を撮るの為に、アプリを切り替えると落ちてしまい、都度都度アプリを立ち上げ直す必要がありました。
また、アプリにはカメラ(おまけの文字やARなどが入る仕様)もあったんですが、ズームなどの機能が無いのが不便で、結局使いませんでした・・・。
しかもアプリの読み込みに時間がかかりますし、電池も消耗してしまいます。
これはアプリの改善点だと思います。折角良いガイド機能があるのに、もったいないと思いました。
ちょっと愚痴でした。
三宝院
醍醐寺の塔頭の一つである三宝院は、定賢(じょうげん)、義範(ぎはん)、範俊(はんしゅん)の三人の師から法を授かった醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)僧正が、平安時代の永久三年(1115)に創建したもので、その後、鳥羽法皇(とばほうおう)の御願寺になる。
室町時代には三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の猶子である満済准后(まんさい じゅごう)(醍醐寺第73世座主)が、三宝院を醍醐寺の中心的な役割を担う本坊にした。満済の活躍は醍醐寺だけに止まらず、公武の調整を図りながら室町幕府の義満(よしみつ)、義持(よしもち)、義教(よしのり)の将軍を補佐した。その影響力は絶大で、六代将軍・義教をくじ引きで争いなく誕生させるなど、安定した室町時代を陰で支えたことなどで知られる。
しかし、満済准后没後には京都を中心に応仁の乱(1467~1477年)が起こり、醍醐寺はもちろん、三宝院も大きな被害を受け、それ以降、本格的な復興を遂げることが出来ずに130年以上の時が過ぎていった。
慶長年間に入った頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)と親交のある義演准后(ぎえん じゅごう)(醍醐寺80世座主)は、慶長三年(1598)春、秀吉によって催された「醍醐の花見」を契機に、醍醐寺の復興を秀吉に願い出た。
秀吉は「醍醐の花見」の後には紅葉狩り、また翌春には、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸を仰いでの花見を計画していたことから、義演准后の願いを快く引き受けた。三宝院や伽藍の復興は秀吉亡き後も秀頼(ひでより)に引き継がれ、その援助のもと、復興された。
特に、三宝院の庭園は、秀吉自らが縄張りし、覇者の証とされた名石「藤戸石」を聚楽第から運び込むなど、天下人の庭として知られている。現在、庭園は特別名勝・特別史跡に指定されている。
また、表書院の東側の一段高い建物は純浄観、さらにその奥には本堂があり、快慶(かいけい)作の本尊・弥勒菩薩、真言宗を開いた弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)、醍醐寺を開いた理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が祀られている。
(醍醐寺ナビより引用)
大玄関から先、建物に入ると全て撮影禁止でした。
詳しくは公式ホームページをご参照下さい。
大玄関を入ったところで、三宝院のご朱印が頂けます。
唐門(国宝)
三宝院の門を左に出てすぐに、唐門(国宝)があります。
朝廷からの使者を迎えるときにだけ扉を開いた勅使門です。
門全体が漆塗りで、五七の桐と菊の紋が金箔で施されています。
下醍醐
下伽藍を守る仁王像に出会う
仁王門(西大門)
西大門は、慶長十年(1605)に再建され、両脇の仁王像は、平安後期の長承三年(1114)に仏師勢増・仁増によって造られました。大きめの頭に比べて体はやや細身で小柄にまとめられ、忿怒形像としては優しげな作風です。向かって右の像は口を開いた阿形像で、左の像は口を結んだ吽形像です。もとは南大門にあった尊像であること、豊臣氏による再興事業の際に修復され西大門に移された経緯などが、体内の墨書や納札に書かれています。(醍醐寺ナビより引用)
平安朝から始まる「桜会」の舞台
清瀧宮本殿(重文)/清瀧宮拝殿
清瀧権現は、唐の青竜寺から空海を守護して海を渡る際、名を「青竜」から「清瀧」に改めて複数の寺を巡った後、聖宝理源大師により醍醐寺山頂に降臨し留まり、以後、醍醐寺に伝えられる真言密教を守護する女神になったとされています。
本殿は永長二年(1097)に建立されましたが焼失し、現在の社殿は永正十四年(1517)に再建されています。拝殿は、慶長四年(1599)に醍醐寺第80世座主・義演僧正により、整備が施されました。
毎年、4月に「清瀧権現桜会法要」が行われています。(醍醐寺ナビより引用)
さまざまな祈りが雄大に響く伽藍の中心
金堂(国宝)
延喜四年(926)に醍醐天皇の御願により創建された金堂は、創建当時は「釈迦堂」といわれていましたが、永仁、文明年間に二度焼失しました。
慶長五年(1600)、紀州湯浅から移築され、豊臣秀頼の時代に完成した現在の金堂は、正面が七間、奥行きが五間の堂々たる建築で、斜め向かいに立つ五重塔と美しく調和が取れています。
薬師三尊像の中央、薬師如来はヒノキの寄木造で切れ長の目が印象的です。脇侍の日光・月光菩薩はこの時代には珍しいヒノキの一本造です。薬師三尊像はいずれも鎌倉初期の作ですが、平安初期の檀像彫刻風の仕上げをしています。薬師三尊の左右には、四方を守護する四天王立像が安置されています。
毎年、2月23日には、醍醐寺最大の法要「五大力尊仁王会法要」が行われます。(醍醐寺ナビより引用)
醍醐に流れる一千年の時を見つめる奇跡の塔
五重塔(国宝)
醍醐天皇の菩提を弔うために穏子皇后が発願し、穏子皇后の第一皇子である朱雀天皇が承平六年(936)に着工し、第二皇子である村上天皇の天暦五年(951)年に完成した五重塔は、発願から完成まで、約二十年の歳月がかかりました。
初層の内部には日本の密教絵画の源流をなす両界曼荼羅の諸尊や真言八祖像が余すところなく描かれています。これらは10世紀の絵画としては唯一のものといってよく、制作年代の明確な仏画の秀作として高く評価されています。中でも真言八祖像にある空海像は、現存する空海の画像としては日本最古のものであり、その意味からも貴重なものといえます。
醍醐天皇のご命日である毎月29日には、「五重大塔開扉納経法要」が行われます。(醍醐寺ナビより引用)
法螺貝の鳴り響く修験道場
不動堂
紫燈護摩は野外に護摩木や藁などを積み上げ、そこへ仏菩薩を招き点火し、その火により修験者の煩悩を焼き尽くすとともに、天下国家安穏、家内安全、五穀豊穣などを祈願するものです。
毎年2月23日の「五大力尊仁王会法要」には、当山派修験道によって紫燈護摩が焚かれます。(醍醐寺ナビより引用)
弘法大師と理源大師、二人の祖師を思う
祖師堂
慶長十年(1605)、醍醐寺第80世座主・義演准后により建立された祖師堂には、弘法大師と理源大師が祀られています。
聖宝理源大師は16歳の時に空海の弟、貞願寺真雅僧正の許で出家得度し、貞観十三年(871)、40歳の時、真雅から無量寿法を伝授され、以後、真言密教の修学につとめました。
毎年、弘法大師の誕生日である6月15日には、降誕会が行われます。また、理源大師の月命日にあたる毎月6日には、開山大師法要が行われています。(醍醐寺ナビより引用)
平成に建てられた新たなお堂
真如三昧耶堂
法華三昧堂は、醍醐天皇と穏子皇后第一皇子・朱雀天皇の御願により、天暦三年(949)に創建されましたが、文明二年(1470)に焼失しました。現在の御堂は平成九年(1997)に真如三昧耶堂として建立されました。(醍醐寺ナビより引用)
御朱印、納経の列が絶えない観音霊場
観音堂(西国十一番札所)
醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和五年(1930)に山口玄洞居士の寄進により造築された観音堂は、かつては「大講堂」と呼ばれていました。
堂内には丈六(約4.9m)の木造阿弥陀如来座像が安置されています。
平成二十年(2008)、8月24日未明の落雷による火災で上醍醐准胝堂が焼失したため、現在、観音堂において御朱印、納経等の受付を行なっています。
毎年5月18日を中心とした一週間、准胝観世音菩薩の御開扉法要が行われます。(醍醐寺ナビより引用)
西國第十一番
山城國 上醍醐寺
御本尊准胝観世音菩薩
ぎゃくえんも もらさですくう がんなれば じゅんていどうは たのもしきかな
開基 理源大師聖宝
建立 貞観十六年
京都市伏見区醍醐醍醐山
真言宗 深雪山 上醍醐寺
訪れる人を魅了する屈指の紅葉スポット
弁天堂
弁天堂は、醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和五年(1930)に山口玄洞居士の寄進により造築されました。堂内には、七福神の一員で、琵琶を持ち音楽などの学芸や知識の女神として古くから多くの信仰を集めている弁財天が祀られています。(醍醐寺ナビより引用)
紅葉に包まれ、林間の小路を辿る
無量寿苑
園内には350本ものモミジを筆頭に、イチョウやドウダンツツジなど、秋に色づく樹木に加え、ヤマザクラやサザンカなどの花木、さらにカンツバキやシャガ、薬草なども植えられています。(醍醐寺ナビより引用)
上醍醐
無量寿苑を抜けると、上醍醐へ向かう道に入ります。
柵を抜けると下醍醐へは戻れなくなるので、上醍醐へ行かない人は注意が必要です。
今も昔も上醍醐への参拝はここから
成身院(女人堂)
醍醐山はかつて、女人禁制の山でした。女人堂の前には手水場があり、山側から不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩の5体の仏像が安置されています。その傍には、「御千度石」と刻まれた小さな石碑が立っていて、この石碑と女人堂の間を千回往復すれば、山上の上醍醐に参拝したのと同じ功徳があるといわれていました。
現在の本堂は江戸初期の再建といわれ、本尊には、山上の准胝観音の分身(非公開)が祀られています。
こちらで上醍醐への入山料600円をお納めして、山道に入っていきます。(醍醐寺ナビより引用)
山頂・開山堂 約2.6k 徒歩60分
西国11番霊場 準胝観音堂 約2.2k 徒歩51分
不動の滝 約1.1k 徒歩21分
「醍醐の花見」が催された夢の跡
槍山
慶長三年(1598)3月、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を盛大に行った中心の場所です。槍山はかつて千畳敷きの平坦な地で、ここに花見御殿が建てられていました。
花見が行われる1年前、秀吉は突然醍醐寺を訪れ、桜を鑑賞しています。その時の美しさが忘れられず、お世話になった方々や女房女中衆に喜んでもらうための花見を開く計画をしました。翌年2月、再び醍醐寺に下見に訪れ、槍山に御殿の建築を命じ桜の馬場から槍山に続く350間(約637m)の左右に700本の桜が植えられました。これらの桜は畿内や吉野の桜を移植したものでした。(醍醐寺ナビより引用)
醍醐の花見
慶長三年(1598)三月十五日、秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催した。千畳敷きとも呼ばれる平地には新しい花見御殿が建てられた、又、女人堂から槍山の間には、長束正家(なつかまさいえ)をはじめ各武将により趣向を凝らした茶屋八棟が設けられた。
この花見に先駆けて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本を植えさせた。
花見の当日、秀吉は秀頼・北政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝に吊り下げた。秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。
[保存資料]
重文・醍醐花見短冊(一三一葉・霊宝館所蔵)
重文・純浄観(旧花見茶屋・三宝院に移築)
「胸突き八丁」の急坂が始まる
不動の滝
不動の滝は、山頂までの登山行程「十六丁」のほぼ中間地点にあります。ここから「胸突き八丁」と呼ばれるきつい登りが始まるのです。
不動の滝には不動明王の石像が祀られ、湧水もあります。水の流れる音にちょっと癒される空間で、休憩スペースにもなっています。(醍醐寺ナビより引用)
醍醐寺発祥の霊泉
醍醐水
貞観十六年(874)、聖宝理源大師は、笠取山に五色の雲が棚引くのに導かれ、この山に登りました。山上で老翁に出会い、そこに湧く水が醍醐味であると教えられます。聖宝が精舎を建てる地を探しているというと、老翁は「私は地主神(横尾明神)だが、この土地をあなたに差し上げて、私は寺の守護神になろう」と聖宝に言いました。
寺名の起こりとなった醍醐水は、今も湧き続けています。(醍醐寺ナビより引用)
醍醐水
貞観十六年(874)六月聖宝理源大師当山開創のみぎりこのところに於て地主神横尾明神の影現にあい「永く此の地を師に献ぜむ、よく密教を弘め群生を利済せよ、我も亦擁護せむ」と告げ、落葉をかき分け、その下から湧出した泉を汲んで「あゝ醍醐味なる哉」の言葉を残して忽然と姿を消されたと伝えられ、尊師はそのところに石をたたんで閼伽井とされ笠取山の古名を改めて醍醐山と称せらるるに至ったもの〇醍醐寺発祥の霊泉である。
醍醐とは乳製品で五味の最上なるものの名称であるが、この寺の場合は、心の糧として仏法が最高であることをいわんとするものである。
多くの僧が居住した上醍醐の往時を伝えるお堂
清瀧宮拝殿(国宝)
清瀧宮拝殿は、寛治二年(1088)に創建され、永享六年(1434)に再建されました。四方に縁を巡らし、蔀戸のある邸宅風の手法を取り入れた建築です。(醍醐寺ナビより引用)
国宝 清龍宮拝殿
創立は寛治二年(1088)であるが。此の堂は永享六年(1434)に再建され現在に到っている。邸宅風の手法を用いたつつましやかで親しみやすい建築で、古風で純粋な伝統的手法が繊細で垢抜けした姿で活かされており洗礼された気品を備え、高く評価されている。
清龍宮本殿
准胝堂跡
醍醐天皇の篤い信仰を伝える「箔薬師」さまのお堂
薬師堂(国宝)
延喜十三年(913)に醍醐天皇の御願堂として創建され、保安二年(1121)に再建された薬師堂は、全体に水平感を強調した落ち着いた建物で、蟇股や組物など平安後期の気風をよく伝えています。
本尊の薬師三尊像は、聖宝理源大師の弟子、会理僧都の作で、歴代の帝がご病気の平癒を祈られるたびに金箔を尊像に貼り、「箔薬師」の名で篤い信仰を集めていたことは有名ですが、現在は保存管理のため、霊宝館に移されています。
平成二十四年(2012)に、国宝の三尊物とほぼ同じ大きさの薬師三尊が、新しい本尊として奉安されています。(醍醐寺ナビより引用)
国宝 薬師堂
此の堂の創立は、延喜七年(907)で、開山聖宝理源大師の時に遡るが、現在の堂は保安二年(1121)に再建なったもので、山上伽藍に於いては最古の建造物で数少ない平安時代の遺構として貴重なものである。
堂内蟇股は、所謂本蟇股の最も古い例の一つである。
本尊薬師如来坐像は脇侍の日光、月光両菩薩と共に国宝に指定されており聖宝の弟子会理(えり)僧都作になるもので貞観後期の豪快な気分を、十分に感じさせる優美な作品である。又、歴代の聖帝が御病気の平癒を祈られる度に金箔を尊像にはり加えられた事は有名であり「箔薬師」の名で厚い信仰を集めている。
現代に続く「五大力さん」の原点となる御堂
五大堂
五大堂は醍醐天皇の御願堂として創建されましたが、以後数度の災に遭い、現在のお堂は昭和再建のものです。
山上に聳えるその偉容は、密教寺院の雰囲気を今に伝えています。
本尊五大明王は、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王で、災難身代わりの霊尊として多くの方にお参りされています。
平成二十六年(2014)、五大堂に安置されていた五体の明王像は国立奈良博物館に展示されるため、初めて山を下りました。このうちの大威徳明王は聖宝理源大師が延喜七年(907)に造り始め、弟子観賢が引き継いで完成させた尊像です。
毎年2月23日には「五大力尊仁王会法要」、通称「五大力さん」が行われ、この日に限り「御影」と呼ばれるお札が授与されます。 (醍醐寺ナビより引用)
五大堂
醍醐天皇御願により、延喜七年(907)に建立された五大堂であるが、再建のつどに祝融に遭い、慶長十一年(1606)豊臣秀頼再建の様式を伝え、昭和十五年(1940)に再建されたものである。
お祀りしてある不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、威徳明王、金剛夜叉明王、国土安泰、消除不祥のご誓願を持ち“五大力さん”の通称で尊崇され、毎年二月二十三日に仁王会大法要が厳修されて盗難除、災難身代わりの霊符が授与されている。
豊臣秀頼により再建された「絶景」のお堂
如意輪堂(重文)
聖宝理源大師は、醍醐寺開山の際に、如意輪、准胝の二観音像を彫り、最初に准胝堂を建てて二観音を祀りましたが、開眼供養の時、如意輪観音は東の峰に登り、苔生した石の上に坐してしまったので、聖宝は慌てて如意輪堂を造って如意輪観音を奉安したといわれています。その後再三焼失し、現在のものは慶長十一年(1606)に豊臣秀頼により再建されました。(醍醐寺ナビより引用)
重要文化財 如意輪堂
此の堂宇は、開山入師が准胝堂と共に自己の如意輪観世音菩薩祀られた由緒深いものであるが、再三焼失し其の都度再建され、現在の建物は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼により再建されたものであるが、その木造りは全て大坂に於いて行われたものである。
醍醐寺新要録によれば「結構花見前代の堂に十倍」とあり、此の堂の再建当時の美麗を、昔時の堂の簡素さが偲ばれる。
本尊は二臂如意輪観世音で、豊家ゆかりの女房衆の寄進になるものである。
醍醐寺の開祖聖宝理源大師を祀るお堂
開山堂(重要文化財)
理源大師の弟子で醍醐寺第一世座主・観賢僧正によって延喜十一年(911)に建立された当時は「御影堂」といわれていました。
お堂の内陣には、中央に聖宝理源大師像、左に弘法大師像、右に観賢僧正像が奉安されています(非公開)。 (醍醐寺ナビより引用)
重要文化財 開山堂
最初延喜年間に建立され、次いで寛治六年(1092)に改築されたが、その後二回に渡り祝融に遭い、現在の堂宇は慶長十一年(1606)豊臣秀頼の再建されたもので、雄大な桃山時代調をよく発揮した山上最大の建造物である。その様式に於いては注意を要する点が多々あるが、外観に於いては、側面前端の間の扉で、ここでは縁が切断されており、扉が亀腹上にまで達しておることである。
堂の内内陣には、中央に開山聖宝理源大師、左に弘法大師、右に醍醐寺一世座主観賢僧正の像が奉安されてある。
醍醐山頂 標高450m
開山堂の前の石段を降りると、上醍醐寺の奥の院へ抜ける道があり、次の西国三十三所 第十二番札所の岩間寺へは、昔の人はこの先へ行かれたのだと思います。
階段を少し降りたところに、白河天皇皇后賢子の上醍醐陵がありました。
白河天皇皇后 賢子
白河天皇皇女 尊称皇后 媞子内親王
白河天皇皇女 尊称皇后 令子内親王
上醍醐陵
鳥羽天皇皇女 禧子内親王墓
昼食おすすめ
開山堂を出てから女人堂まで下りて来るのに、約50分かかりました。
今回は膝が痛くて困ることは無くて良かったのですが、14時を過ぎていたので
おなかペコペコです。
今回は公開時期を外れていたので入れなかった霊宝館の向かいに、「雨月茶屋」があります。こちらで昼食を頂くことにしました。
こちらで醍山ゆばカレーと、京都の地ビール「ケルシュ」を頂きました!
お昼時が過ぎていたのか、空いていてゆっくりできたので、ゆっくり味わえました。
復路
醍醐発15:34 → 山科着15:42 (京都市営東西線・太秦天神川行)
山科発15:53 → 大阪着16:28 (JR湖西線新快速・姫路行)
最後に新梅田食堂街のセブンシーズで締めました。