【西国三十三所巡り】 第六番札所 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)(Tsubosakadera)、第七番札所 東光山 岡寺(Okadera)(龍蓋寺) 参拝記

第六番札所 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)

2016年4月4日の記事(改訂版)

4月2日、奥様と一緒に花見を兼ねて行ってきました。
出掛ける前に簡単な計画を上げて行きましたが、出発が遅くなってしまい、時間に追われてバタバタでした。
移動は電車とバスがほとんどで、また次に飛鳥に行く際の下見のような感じになりました。
スポンサー(奥様)と一緒だったので、ちょっと贅沢な移動になった感がありますが、参考ながら記録としても残しておきたいと思います。

往路

梅田(大阪市営)発10:41 → 天王寺着11:00 (大阪市営御堂筋線・天王寺行)
大阪阿部野橋発11:10 → 壺阪山着11:53 (近鉄南大阪線特急・吉野行)
壺阪山駅発12:15 → 壺阪寺前着12:26 (奈良交通・20系統(壷阪山駅−壷阪寺前)・壷阪寺前行)

近鉄特急の指定席(510円)を取って、ハイボールを飲みながら、ゆったりと目的地に向かいます(笑)

全席指定の特急なのに、空いてる席に適当に座っているマナーの悪い外国人旅行者の家族(6名くらいの小団体)が居ました。
例の喋りの声が大きいお国の方々で、それさえなければ快適だったのですがね。

旅のお供 (近鉄特急車内にて)
旅のお供 (近鉄特急車内にて)

 


壺阪山駅到着

さて、目的の壺阪山駅に到着!
小さい駅ですが、吉野行の特急がちゃんと停まりますよ!

壺阪山駅
壺阪山駅
壺阪山駅 観光案内
壺阪山駅 観光案内

我々はバスの時間を待ったのですが、駅前にはタクシー会社があり、人数で割ったら安くなるので、そちらの方がおススメかもしれません。

ここは高取藩二万五千石の城下町の入り口になります。
城下町の雰囲気が残されているという事なので、次はハイキングルートを通って、日本100名山にも数えられている高取山城跡へも是非行ってみたいと思います。

たかとり観光案内図
たかとり観光案内図
壺坂寺行きバス (本数が少ないので注意!)
壺坂寺行きバス (本数が少ないので注意!)

南法華寺(壺坂寺)

バスに揺られて10分ほどで到着です。
満開の桜が迎えてくれました!!

壺坂寺バス停付近より飛鳥方面を望む
壺坂寺バス停付近より飛鳥方面を望む
壺坂寺入口付近の桜
壺坂寺入口付近の桜

入山受付

入山受付
入山受付
拝観
拝観

拝 観

御本尊 十一面千手観世音菩薩
天竺渡来 大観音石像 (御丈 二十米 重量一千二百屯)
仏伝図石造レリーフ (高さ 三米 全長 五十米)
天竺渡来 大石堂 (高さ 八・五米 横幅 十二米 重量 五十屯)
天竺渡来 大涅槃石像 (御丈 八米 重量 二十屯)
天竺渡来 めがね供養観音石像 (御丈 五米 台座含む)
天竺渡来 十一面千手観音石像 (大石堂内 御丈 三米)
お里沢市の像

主建造物 数度の火災で、奈良、平安、鎌倉時代の諸堂が焼失した。現在は室町中期の一部が保存されている。
禮堂 重要文化財 室町時代
三重塔 重要文化財 室町時代
八角円堂(本堂) 江戸時代
鐘楼 江戸時代
仁王門 桃山時代
中興堂
天竺門
行者堂
大講堂
多宝塔
灌頂堂(旧因幡堂)
慈眼堂(旧阿弥陀堂)
特別寺室
沢市の杖(夫婦円満・良縁成就の杖)
沢市投身の崖
香高山 匂いの花園 改装中


観音経絵図御将来国際交流事業

壺坂寺は古くから観音霊場として栄え、天竺インドと国際奉仕の縁で結ばれ、大観音石像等を御将来している。現在は観音さまの慈悲を説いた観音経の絵図を制作する事業を日印合同で行っている。日印にある観音さまの絵図やお言葉を参考にして、進められている。
共済 壺坂寺 アジア・アフリカ国際奉仕財団

 

なんといっても、このお寺は慈善事業に非常に力を入れられているので、施設が充実しています。
入山料をお支払いしたら、スタンプラリーの用紙を渡されたので、奥様と一緒にスタンプの場所を探してお寺の境内をあちこち回ってます。
こういうのも良い取り組みだと思いますわ。
入ってすぐにある講堂前には、観音様が救ってくださる七難についての説明があり、大変面白いです!


観音さまが救う七難

観音さまは、人の心に起こる七つの難を説き、その難と立ち向かい、正しい道を歩むことを教示しています。
様々な難に立ち向かっていると、余裕が無くなってしまいます。
そんな時に「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)と心の中で唱えると様々な難儀に立ち向かい、美しい心を取り戻す不思議な力が起こってくると信仰されています。

「観音さまが説き、そして救う七つの難」

火の難は あらゆる欲が発する難。
水の難は 欲に溺れることによる難。
羅刹難(風難)は 欲に流されることによる難。
刀難は 己を信じきれぬことによる難。
悪鬼難は 欲の流入による難。
杻械枷鎖難(ちゅうかいかさなん)は 欲に捉われることによる難。
怨賊難(おんぞくなん)は 欲を畏れることによる難。

 

火難

若有持是観世音菩薩名号
入大火 火不能燃
由是菩薩威神刀故

仮に観世音菩薩のお名前を称え
心に信じ奉る人であったなら
たとえ燃え盛っている火の中に入ったとしても
菩薩の不思議な力のお陰で
火も焼くことができないのです

水難

若為大水所漂。
稱其名號。
即得淺處。

大洪水の中に漂うことになったとしても、観音さまのお名前を称えたならば、ただちに浅いところに着くことができるのです。

羅刹難

若有百千萬衆生。為求金。銀。瑠璃。硨磲。碼碯。珊瑚。琥珀。真珠等寶入於大海假使黒風。吹其船舫。飄堕羅刹鬼国。其中若有乃至一人稱観世音菩薩名者。是諸人等。得解脱羅刹之難。
以是因縁。名観世音。

もし数限りない人々が、金銀などの財宝を求める為に大海に船出して、大風雨に襲われて食人鬼の国に漂着しても、その船の人の中でもし一人でも観世音菩薩の名前を称える人がいたら、他の人たちも食人鬼の危害から逃れることができるのです。
このようなことから、世の中の苦難をよく見て人々を救って下さるから観世音菩薩と名付けるのです。

刀難

若復有人。臨當被害。稱観世音菩薩名者。
彼所執刀杖尋段段懐。而得解脱。

或いは今、害を加えられようとしている人が観世音菩薩の名を称えたならば、相手の刀や槍は相次いで折れて、その苦しみから逃れることができるでしょう。

悪鬼難

若三千大千国土。満中夜叉羅刹。欲来惱人聞稱観世音菩薩名者。
是諸悪鬼。尚不能以悪眼視之。
況復加害。

仮に数多くの国々に満ちている鬼が集まって、人々を悩まし苦しめようとしている時に、誰かが観世音菩薩のお名前を称えるのを聞いたならば、多くの鬼たちの悪意に満ちた恐ろしい眼で人々を見ることはできないでしょう。そのうえ害を加えることができるでしょうか、いいえ、害することはできないのです。

杻械枷鎖難(ちゅうかいかさなん)

設復有人。若有罪。若無罪。
杻械枷鎖 検繁其身。稱観世音菩薩名者。皆悉断懐即得解脱。

仮にある人がいて、その人に罪があるかもしれないし、罪がないかもしれないが、いずれにしてもよく調べるために、その人が手かせ・足かせ・首かせ・くさり等で縛られていたとしても、観世音菩薩のお名前を称えたならば、束縛していた物は悉く壊れて、直ちにそれから逃れることができるでしょう。

怨賊難(おんぞくなん)

若三千大千国土。満中怨賊。有一商主。将諸商人。齎持重宝。経過険路。其中一人。作是唱言。諸善男子。持得恐怖。汝等應當一心稱観世音菩薩名號。是菩薩。能以無畏。施於衆生。汝等若稱名者。於此怨賊。當得解脱。衆商人聞倶發聲言。南無観世音菩薩。稱其名故。即得解脱。

数限りなく多い国々に悪党が満ちている時に、一人の商人が大勢の商人を率いて、狭く険しい道を尊い宝物を捧げ持って通り過ぎる場合にその中にいる人が次のように呼びかけます。畏れを持つことはなく、そのためにひたすら観世音菩薩のお名前を称えなさい。
何ものを畏れることのない智慧を持って衆生を救って下さるのです。観世音菩薩の名前を称えたならば、悪党から逃れることができます。その場にいた商人たちはその声を聞いて、南無観世音菩薩と唱えるでしょう。そのお名前を称えたならば、危険から逃れることができるのです。


社会福祉法人 壺坂寺聚徳会 壺坂寺(南法華寺)

壺坂寺は、大宝三年(703)弁基上人によって開かれた霊山で、正式には「壺阪山南法華寺」と言います。十一面千手観音様を御本尊として祀る観音信仰の一大道場で、西国霊場の第六番札所です。古来から眼病に霊験あらたかな寺として信仰され、説話「壺坂霊験記」における、お里・沢市の話は、あまりにも有名です。また、日印合同でさまざまな浄業を行っており、境内にはインドで製作された大観音石像(全高20m)や仏伝図石造レリーフ(全長50m)、大涅槃石像(全長8m)などの大石像美術が安置されています。
「壺坂寺」は、昔から目の不自由な人々によっての聖地として厚い信仰と、深い願いがこめられ、全国各地から訪れる人が絶えません。そして、この地に住みたいという老人たちの願いに応えるのが真の老人福祉であるという、故常盤勝憲長老の情熱と信念、多くの人々の善意が結実して、昭和三十六年我が国で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が誕生しました。さらに、故常盤長老の「思いやりの心を 広く深く」の呼びかけの下に昭和四十五年より法人名を“壺坂寺聚徳会”と改名し、さまざまな福祉事業を行っています。


壺坂寺仁王門

建暦二年(1212)建立

貞慶解脱上人が建立に係ったと伝えられている。室町期と安土桃山期に大修理を加え、昭和には解体修理を行ったが、平成十年の台風により屋根が半壊したので、開創千三百年を期して、防災上の見地から建立場所を当地に移し、再度解体修理を行った。仁王尊は各、一丈一尺の大きさであり、背後からの釣金の助けなく立たれている。

壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門
壺坂寺仁王門 仁王尊
壺坂寺仁王門 仁王尊
壺坂寺仁王門 仁王尊
壺坂寺仁王門 仁王尊
壺坂寺仁王門 仁王尊
壺坂寺仁王門 仁王尊

壺坂寺多宝塔

仁王門を抜けると、すぐに多宝塔があります。

壺坂寺多宝塔
壺坂寺多宝塔
壺坂寺多宝塔
壺坂寺多宝塔

壺坂寺手水社

壺坂寺手水社
壺坂寺手水社
壺坂寺手水社
壺坂寺手水社

天竺渡来 大釈迦如来石像

天竺渡来 大釈迦如来石像
天竺渡来 大釈迦如来石像
天竺渡来 大釈迦如来石像
天竺渡来 大釈迦如来石像
天竺渡来 大釈迦如来石像より多宝塔を望む
天竺渡来 大釈迦如来石像より多宝塔を望む

天竺渡来 大石堂(納骨堂)

建立縁起

壺坂寺はインドにおけるハンセン病患者救済活動へのご協力のご縁から、インドにおいて石彫事業を推進し、壺坂の伽藍に大石像文化を展開している。
この御堂は、インドのアジャンタ・エローラ石窟寺院をモデルに造られ、各所にインド特有の石彫を施し、身の丈三メートルの十一面千手観音菩薩像を安置し、日印の石文化の融合を目指しました。御堂奥の壁には、全国の信者より寄進奉納された千躰仏、阿弥陀仏が荘厳され、さらに、その奥には尊霊を永代に供養する一室が設けられています。


壺坂寺三重塔(重要文化財)及び禮堂(重要文化財)

重要文化財に指定されている三重塔と禮堂。
こちらで眼病の厄除けを奉納し、禮堂内を回って、ご朱印を頂きました。
後で気が付きましたが、奥にある八角堂は写真を撮ってませんでした(苦笑)

壺坂寺 三重塔
壺坂寺 三重塔
壺坂寺 三重塔
壺坂寺 三重塔
壺坂寺 禮堂
壺坂寺 禮堂
壺坂寺 禮堂
壺坂寺 禮堂

ご朱印

壺坂寺 ご朱印
壺坂寺 ご朱印
壺坂寺 ご朱印
壺坂寺 ご朱印

西國第六番
大和國 壺阪山
御本尊千手観世音菩薩

いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん

開基 弁基上人
建立 大宝元年

奈良県高市郡高取町壺坂
真言宗 壺阪山 南法華寺


壺坂霊験記

お里・沢市投身の谷

今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。
そんな沢市の胸中にひとつ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜けだしていたからだ。
「もしや好きな男が・・・」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壺坂寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお詣りすることにしたが、心の中は盲目ゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのだった。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。
しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。
この地は、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている。

壺坂霊験記
壺坂霊験記
お里 澤市の像
お里 澤市の像
投身の谷
投身の谷
めがね供養観音
めがね供養観音
澤市霊魂碑
澤市霊魂碑
お里観音
お里観音

天竺渡来釈迦如来大涅槃石像

天竺渡来釈迦如来大涅槃石像
天竺渡来釈迦如来大涅槃石像
天竺渡来釈迦如来大涅槃石像
天竺渡来釈迦如来大涅槃石像

天竺渡来釈迦如来大涅槃石像

全長8メートル

この石像、インドから招来された。
インドにおける奉祀事業のご縁で始まった国際交流・石彫事業の一環として製作された。
涅槃像はすべての教えを説き終えて入滅せんとする釈迦の姿を顕している。
釈迦の最後の説法は、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」自らを灯明とし、自らをよりどころとし、法を灯明とし、法をよりどころとすることを説かれた。
釈迦がいる、いないにもかかわらず自分を頼りとし、正しい教えを頼りとすることを意味している。


天竺渡来大観音石像

天竺渡来大観音石像
天竺渡来大観音石像
天竺渡来大観音石像
天竺渡来大観音石像

天竺渡来大観音石像

全長20メートル

天竺渡来大観音石像は、インドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したものである。
インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府より提供され七万人のインドの石工が参加してすべて手作りで制作された。二十メートルの巨石は動かすことも運ぶことも不可能なので六十六個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられた。全重量千二百トンである。
この巨石を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されている。また、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められ、六十六個の石が一本の巨石となっている。
この大観音石像はインドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門によって制作されたもので昭和五十八年三月十二日開眼法要が営まれた。


石像のある辺りから壺坂寺を望む

石像のある辺りから壺坂寺を望む
石像のある辺りから壺坂寺を望む

壺坂寺灌頂堂

見逃してしまって順番が最後になりましたが、多宝塔の北隣には灌頂堂がありました。
豊臣秀吉の弟の大和大納言秀長の家臣本多一族が、戦国期に疲弊した寺の再興に尽力したという事です。


壺坂寺灌頂堂(かんじょうどう)

本尊 十一面千手観音菩薩
落慶 平成十七年四月

壺坂寺は子島(小島)または壺坂流と称される真言宗の一流派の道場であった。その教えを伝えるための灌頂堂は平安時代に建立されていたと推察される。その後、二度の大火に遭いながら、その度ごとに再建されていたと伝えられている。
十五世紀にまた大火の難に遭うが、その後再建の記録は見受けることはできない。
平成十五年に迎えた壺坂寺開創千三百年を期に当山の重要な御堂の一つであった灌頂堂再建を発願した。御堂再建に際し、慶長年間、当山伽藍再興に尽力された高取城主本多因幡守が寄進した因幡堂(いなばどう)の部材の大部分を用い、老朽化した部材を新調すると共に、旧因幡堂の幅と奥行を拡げ、現在の正面五間、奥行四間の御堂として再建した。また、御堂には本多公の尊像を安置し大和大納言豊臣秀長の家臣であり、戦国の戦乱で疲弊した壺坂寺再興に尽力した本多一族の遺徳を顕彰している。


最後、入山受付にスタンプが埋まった台紙をお渡しすると、記念にお札を頂けました。

奈良県高市郡高取町壺坂

岡寺へ向かう

参拝を終え、次の岡寺へ移動します。
壺阪山駅行きのバスに乗った時間は14:30になっていました。
この後、飛鳥駅まで移動し、レンタサイクルを借りる予定。

壺阪寺前発14:30 → 壺阪山駅着14:41 (奈良交通・20系統(壷阪山駅−壷阪寺前)・壷阪山駅行)
壺阪山発14:54 → 飛鳥着14:56 (近鉄吉野線急行・大阪阿部野橋行)

飛鳥駅
飛鳥駅
飛鳥駅
飛鳥駅

昼食

レンタサイクルを借りる前に、昼食が未だだったので、駅前のうどん屋さん「与左衛門」に寄って、なにやら定番となりつつある親子丼(ミニうどん付)を頂きました。

与左衛門
与左衛門
与左衛門 親子丼(ミニうどん付)
与左衛門 親子丼(ミニうどん付)

レンタサイクル

飛鳥駅前にはレンタサイクルが3社(?)くらいあります。

利用を予定していたのは、駅前の↓こちら
飛鳥レンタサイクル 飛鳥駅前営業所

我々が駅前のレンタサイクルに行った時間は15:30頃。
全くの調査不足だったんですが、自転車を17:00までに返却する必要があって、到底回って見てくる時間はありません・・・。
「もう遅いやん!(笑)」
レンタサイクルの受付の方に岡寺に行きたい旨を伝えると、とりあえずバスで石舞台まで行って、そこから徒歩で行くように勧められました。
完全にスタートから失敗していることがわかりましたわ(笑)


石舞台古墳へ

飛鳥駅発15:40 → 石舞台着15:56 (奈良交通・23系統(飛鳥駅−橿原神宮駅東口)・橿原神宮駅東口行)

昔、高校生の時に、授業の一環としてオリエンテーリングで飛鳥一帯を回ったことがありましたが、その際、石舞台古墳には時間切れで回れなかった記憶があります。
恐らく、実物を見るのは初めてだったかと思います。
こちらの公園は、多数の観光客の受け入れができるよう整備されており、丁度桜が満開で、観光客でいっぱいでしたわ。

飛鳥観光エリア周遊マップ
飛鳥観光エリア周遊マップ
特別史跡 石舞台古墳
特別史跡 石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳公園
石舞台古墳公園
石舞台古墳 石室
石舞台古墳 石室
石舞台古墳 石室内
石舞台古墳 石室内
石舞台古墳公園
石舞台古墳公園
石舞台古墳公園
石舞台古墳公園
石舞台古墳公園 桜が見頃
石舞台古墳公園 桜が見頃
石舞台古墳公園 この桜の開花はこれから
石舞台古墳公園 この桜の開花はこれから
特別史跡 石舞台古墳
石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。
昭和八年(1933)から実施された調査では墳丘は一辺約55メートルの方墳又は上円下方墳で、周囲には周壕と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明らかとなった。
埋葬施設については南に開口する両袖式の横穴式石室で玄室長は約7.8メートル、幅約3.4メートル、羨道長は約11.5メートル、幅2.2メートルあり、玄室から羨道にかけて排水溝が設けられている。石室内からは凝灰岩片が出土していることから家形石棺が安置されていたものと推定される。

 

奈良県高市郡明日香村島庄254番地

第七番札所 東光山 岡寺 (龍蓋寺)

時間が無いので、見学はさっさと終えて、岡寺へ向かいます。
徒歩約10分ほどで岡寺への参道が見えてきまして、少しきつめの坂を登ると仁王門がありました。

岡寺 三重塔を望む
岡寺 三重塔を望む

岡寺仁王門

岡寺 仁王門
岡寺 仁王門
岡寺 仁王門
岡寺 仁王門
岡寺 仁王尊
岡寺 仁王尊
岡寺 仁王尊
岡寺 仁王尊

岡寺

東光山真珠院竜蓋寺は俗に岡寺と呼ばれる。天智天皇(てんじてんのう)の御代、義淵僧正(ぎえんそうじょう)によって創建されたと伝え、西国観音霊場三十三ヶ所の第七番の札所として広く信仰されている。
本尊如意輪観音像はわが国の塑像の中で最も大きく、また、体内佛といわれる金銅半伽像は白鳳の様式を示し、楼門・書院と共に重要文化財に指定されている。旧寺跡は隣接するはるた治田神社境内と推定され、附近より美しい葡萄唐草紋軒平瓦(ぶどうからくさもんのきひらがわら)など白鳳時代の瓦が出土している。


急ぎ参拝・・・

岡寺に到着したのは、もう16:30頃になっていました。
17時に閉門するという事なので、急いで回っていきます。

岡寺の桜
岡寺の桜
皐月 緋の司 樹齢五百年
皐月 緋の司 樹齢五百年
皐月 緋の司 樹齢五百年
皐月 緋の司 樹齢五百年

岡寺鐘楼堂

岡寺 鐘楼堂
岡寺 鐘楼堂

岡寺開山堂

岡寺 開山堂
岡寺 開山堂

岡寺本堂

岡寺 本堂
岡寺 本堂

ご朱印

岡寺 ご朱印
岡寺 ご朱印
岡寺 ご朱印
岡寺 ご朱印

西國第七番
大和國 岡寺
御本尊如意輪観世音菩薩

けさみれば つゆおかでらの にわのこけ さながらるりの ひかりなりけり

開基 義淵僧正
建立 天智天皇二年

奈良県高市郡明日香村岡
真言宗 東光山 龍蓋寺


岡寺大師堂

岡寺 大師堂
岡寺 大師堂
岡寺 大師堂
岡寺 大師堂

岡寺三重宝塔

岡寺 三重宝塔
岡寺 三重宝塔

岡寺楼門

岡寺 楼門
岡寺 楼門

余りにも時間が少なくて、全然境内を回れませんでした。
また機会を作って、ゆっくり参拝したいと思います。

奈良県高市郡明日香村岡806

帰路

バタバタと回って17時前に出たんですが、ここからも大変ですよ。
全然調べてなかったのですが、バスの運行が無くなります。
参道を麓の町まで下りてくると、岡戎前というバス停があり、飛鳥駅発の橿原神宮駅東口行のバス(我々が乗った後の時間のバス)が出ていくところに遭遇。
バスを見送って、バス停の時間を見ると丁度17時で、ほぼ最終バスの様子。
二人で爆笑しつつ、仕方がないので飛鳥駅まで歩こうという事になり、ふと路地を曲がったところに見つけた飛鳥駅行のバス停の時間を見ると17:04発があり、危うくこれを逃すと本当に駅まで歩いて帰る羽目になっていました。

飛鳥駅に着いて、とりあえず帰りの近鉄電車の特急、
飛鳥駅発17:40 → 大阪阿部野橋着18:21 (近鉄吉野線特急・大阪阿部野橋行)
の指定席を確保しました。

まだ少し時間があったので、ビールとつまみでも買おうかと思ったんですが、駅前で土産物を置いていた総合案内所はもう締まっています。
コンビニもなく、仕方がないので、先ほど昼食に寄った与左衛門さんの隣にたこ焼き屋さんがあったので覗いてみると、持ち帰りが出来るという事で、たこ焼き10個、缶ビール2個を注文。
焼けるのを待っていたんですが、電車に乗り遅れそうなので、「いつもはカリカリに焼くんやけど・・・」という奥さんを急かしてしまい、柔らかめのたこ焼きになりました。
奥さん急かして、ごめんなさい。美味しかったですよ!

バタバタした一日でしたが、奥様と久しぶりの旅ができて楽しかったです!


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