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第三十番札所 竹生島 宝厳寺(Chikubushima-Hogonji)
2016年10月8日の記事(改訂版)
やっと落ち着いてきました。
心理学の勉強なんて慣れないことしたら、すごい知恵熱が出て、ぶっ倒れてました(笑)
講座が終わった後、久しぶりに外出したついでにセブンシーズに一杯飲みに行ったら、台風接近中なのにまともに家に帰らない仲良しの常連さん達に遭ってしまい、楽しくてついつい飲み過ぎてしまったのかもしれません。
9時過ぎには帰って、奥様の夕飯を頂きましたし、まともな筈やってんけどなぁ。
9月27日
先ずは、第三十番札所 竹生島 宝厳寺(Chikubushima-Hogonji)ですね!
久しぶりといって良いほど、朝から良い天気の日でした。
湿度は高くてジメッとしてましたけどね。
朝早く起きれたので、交通費を少しでも浮かせるべく、高槻で乗り換えるコースを取りました。
往路
園田発6:46 → 十三着6:51 (阪急神戸本線・梅田行) (高槻市まで280円)
十三発6:55 → 高槻市着7:14 (阪急京都本線快速急行・河原町行)
高槻市駅 → 高槻駅 (徒歩10分)
家を出るのが早過ぎでしたので、高槻でポケモンGOしてましたよ(笑)
高槻発8:04 → 近江今津着9:10 (JR京都線新快速・敦賀行) (1490円)
近江今津港
駅を出て、観光船乗り場へ向かいます。徒歩5分くらいで着きます。
案内もあって一本道ですし、竹生島へ行かれると思われる方が何名も歩いて居られますので、迷わないと思います。
港に着いたら、三十三所巡りの白装束を着られたおじいちゃん、おばあちゃんが居られて、日本人の若い観光客もちらほらと居られます。
当然ながら外国人の方も結構居られて、平日でこれだと土日祝日は混むのがわかりますね。
土産物を置いている売店もあるので、ここでなんでも済む感じですね。
今津港発9:40 → 竹生島着10:05 (琵琶湖汽船の「竹生島クルーズ」びわ湖横断航路) 2830円 (びわ湖横断航路 今津→竹生島→長浜まで)
港の桟橋に出ると、竹生島が遠くにかすかに見えます。
乗った船は「いんたーらーけん号」です。
当日の琵琶湖は波が穏やかでホンマに良かったですわ。
竹生島が近付いたので撮ってみましたが、あんまりよくわかりませんな(笑)
竹生島
島に着くとお店が並んでたんですが、開いているのは手前の一軒だけ。
お店の方も船で渡って来られるそうなので、まだ開いてなかったのかも?
ちなみに島の中では、ポケモンGOは禁止されています。
拝観料400円をお納めして、かなり急な石段を登ってゆきます。
竹生島神社へは途中で右に折れて鳥居をくぐって行きますが、宝厳寺へは石段を登り続けて行きます。
瑞祥水
地下230mからくみ上げているそうな!
手水舎
石段がつらい・・・。
鐘楼
石段の途中から振り返ったところ
石段を登り切ると、すぐ左に納経所があり、ご朱印が頂けます。
ご朱印
![](http://larmetal777.com/wp-content/uploads/IMG_8537.jpg)
![](http://larmetal777.com/wp-content/uploads/IMG_8538.jpg)
西國第三十番
近江國 竹生島
御本尊千手千眼観世音菩薩
つきもひも なみまにうかぶ ちくぶしま ふねにたからを つむここちして
開基 行基菩薩
建立 神亀元年
滋賀県長浜市早崎町
真言宗 巖金山 宝厳寺
石段を登った右側には天狗堂があります。
納経所の向かいには重要文化財の五重石塔があります。
重要文化財
宝厳寺五重石塔の説明
初重塔身の四方には四仏が配され、台石の格狭間(ごうざま)の形や各重笠石反りの形状などから鎌倉時代の特徴が見られます。
五重石塔で重要文化財の指定を受けているものは、全国で七基しかなく、これはその一つです。
石材は、比叡山中から採掘される小松石によりつくられた石造りの五重の塔です。
豪雨による土砂崩れにより水没し、未だ発見されていないため、相輪の下部のみが後補のものとなっています。
本堂(弁財天堂)
宝厳寺弁財天堂
竹生島宝厳寺の本尊は「弁財天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照大神の信託により僧行基に勅命し弁財天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁財天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治四年(1871)、やむなく弁財天像は塔頭妙覚院の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁財天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和十二年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和十七年(1942)10月、太平洋戦争中にも関わらず完成させたのが現在の弁財天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。
本堂の左わきに三輪堂があります。
本堂の向かいに不動明王像があります。
石造り五重の塔の脇にある石段を登り、三重塔に向かいます。
宝厳寺三重塔
三重塔は本来、釈迦の舎利(遺骨)を納める仏塔の一つです。竹生島の三重塔は、「竹生島勧進帳」(正中三年(1326))や、「菅浦与大浦下荘堺絵図」(14世紀前半)。「竹生島祭礼図」(室町時代後期)等によりその存在が中世から確認できますが、江戸時代初期には廃絶したようです。
以来約350年間再建されることはありませんでしたが、宝厳寺の積年の念願が成就し、平成十二年(2000)現在の三重塔が完成しました。設計に当たっては、中世以来竹生島の宮大工を務めた阿部家に残されていた設計図を参考にし、現代の宮大工が6年の歳月をかけて建立しました。
三重塔の脇に、雨宝童子堂(天照皇大神)があります。
宝物殿
三重塔の向かいに宝物殿があり、寺に伝わる寺宝が見られます。
入館料、確か500円。
館内の写真撮影禁止。
天狗堂の前に出てくる石段を下り、左に行くと三十三所奉安所があり、この先のかなり急な石段を下りてゆくと竹生島神社の方に行けます。 (ちょっと角度が急すぎて怖いです)
宝厳寺唐門、観音堂
残念ながら工事中で、外観を見ることができませんでした。
国宝 宝厳寺唐門
慶長七、八年(1602~3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡骸を葬った廟所)の建造物を竹生島に移築する形で、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってよりクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったことが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長五年(1600)に京都の豊国廟へ移築され、極楽門として設置されたことがわかっています。さらに、慶長七年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴とも言える大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。
豊臣秀吉の大坂城唯一の遺構
国宝唐門
『唐門』とは、唐破風(からはふ)(中央が高く、左右になだらかな曲線で垂れる破風)をもつ門という意味です。
この『唐門』は、京都東山の豊国廟(秀吉の亡骸を葬った廟所)に建っていたものを、慶長七年(1602)豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものと考えられています。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
桧皮葺(ひわだぶき)、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金(きんめっき)の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股(かえるまた)の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸(さんからと)や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りで飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。
平成十八年(2006)、オーストリアにあるエッゲンベルク城で豊臣期大坂図屏風が発見されました。絵中にはこの門が大坂城にあった姿で、本丸北方に架けられていた『極楽橋』の形が描かれています。
唐門が付いたこの橋は、城内の堀などを越えて城主のいる本丸へと渡る廊下橋という形式の橋で、橋の上には屋根や望楼を持つ豪華なものです。大坂城の極楽橋は慶長元年(1596)に建造され、慶長五年(1600)に京都の豊国廟へ移築されたことが分かっています。エッゲンベルク城の絵図から判断して、竹生島の『唐門』は秀吉が建てた現存する大坂城唯一の遺構であることは、ほぼ間違いありません。
重要文化財
宝厳寺観音堂
西国三十三所観音霊場の第三十番札所。
秘仏の千手千眼観世音菩薩立像は、十一面四十二臂の等身仏。その名の通り千手を表した掌にはそれぞれに一眼を持ちます。観音堂も唐門同様、豊臣秀頼の命により京都から移築してきたものです。
平面構造は、桁行五間、梁間四間で、その外回りに縁がめぐっています。琵琶湖側の正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣になっており、等身の観音立像は、内陣の右手奥に安置されています。折上格天井の天井板には牡丹・菊・桐が描かれ、欄間の彫刻や籠彫の木鼻など、随所に桃山時代の美の最高峰が見て取れます。
舟廊下
重要文化財
宝厳寺渡廊
宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿を結ぶ渡り廊下。
竪連子窓を両側に配し、彫刻や天井板を廃したシンプルなデザインは、唐門・観音堂・都久夫須麻神社本殿とは少し趣を異にします。急斜面に建つため、床下は足代を組んだ舞台造。
豊臣秀吉の御座船「日本丸」の部材によって建てられたという伝承を持つことから、別名「舟廊下」と呼ばれています。
都久夫須麻神社(竹生島神社)本殿
国宝 都久夫須麻神社本殿の説明
本殿は、桁行五間梁間四間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。
慶長七年(1602)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。
両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています。内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。折上格天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。
本殿で、厄除けの「かわらけ投げ」ができます。
舟廊下の舞台造が見えます。
黒龍堂
最初に見えた神社への参道の入口に戻ってきました。
売店まで戻り、船の出航まで時間があったので、たつやさんでお昼ご飯を頂きました。
しじみごはんと、きつねうどんのセット。
美味しゅうございました!
長命寺へ
次の長命寺に向かうため、竹生島から長浜港へ移動し、長浜駅を経由して近江八幡駅へ向かいます。
長浜港行きの「べんてん号」が入港
竹生島発12:05 → 長浜港着12:35
長浜港からJR長浜駅まで徒歩10分くらいです。
港から駅までの道中、詳しい案内が見当たらず。これについては不案内かも知れませんね。
長浜発13:05 → 近江八幡着13:39 (JR琵琶湖線新快速・姫路行) 670円
次の長命寺編に続きます!
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