目次
第十五番札所 新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)
2016年6月27日の記事(改訂版)
久々の更新になってしまいました。
治験ボランティアに参加してみようかと検討を始めまして、東京で治験を行っているボランティア団体の説明会と無料で健康診断が受けられるというので、東京のクリニックへ行くことになり、しばらく家を空けておりました。
旅程の計画として、移動と宿泊先の手配、この機会に東京の友人と食事に行く計画や、大航海時代オンラインの旧商会員さんと7年ぶりくらいとなるオフ会を企画したりしてまして、スケジューリングで一杯になってしまい、ブログが下書きで止まってしまっておりました。
6月15日
午後から天気が悪くなりそうでしたが、京都市内であれば雨宿りできる場所が多いと思いまして、あまり気にしないで行ってきました。
幸いこの日は雨には当りませんでしたが、夕方になってから東山の方で大雨になっていると防災メッセージが来ていましたので、もし醍醐寺などで山登りをしていたら危ない所でした。
またこの日は、京都市内であることも関係していますが、外国人観光客、修学旅行生で一杯でした。
朝早かった東福寺はまだましでしたが、清水寺は西国三十三所巡りでなかったら、また回れ右しているところでした(笑)
尚、清水寺の本堂の工事は終わっていましたが、阿弥陀堂の解体修復工事が行われており、奥の院などへは行けませんでした。
往路
予定より少し早めに家を出まして、電車に乗り込みます。
園田発7:22 → 十三着7:28 (阪急神戸本線・梅田行)
普通ならば、十三駅で阪急神戸線から阪急京都線に乗り換えるわけですが、通勤通学の時間帯でもありますし、河原町行きの特急や急行はいつも混み混みなんです。
私はリュックを抱えて持っているので(車内では背負わないマナーを守ってます)、辛うじてスマホが見れるくらいで本も読めず、人が多過ぎてそれすらままならないこともありますから、ほんとに難儀しますよね。
スマホの充電器を持ってはいるものの、写真を一杯撮っていると電池がやばくなるんで、移動中にあまりスマホを使いたくないわけです。
ふと入線してきた準急の車内がめっちゃ空いているのを見て、思わず飛び乗ってしまいました。座席はそれなりに埋まっていて座れませんが、立って吊り革を握っている人も僅かで、本当に空いています。
高槻まで来ると座席をお譲りする人が居ないほどにガラッと空いたので座り、河原町まで座れました。
十三から河原町までは1時間ちょっとかかるわけですが、体が楽なのが一番なので、次の善峯寺へ行く際や、混んでる時間に京都へ行く際には、あえて準急に乗ろうと思った次第です。
十三発7:32 → 河原町着8:37 (阪急京都本線準急・河原町行)
気持ちに余裕が出たのか、河原町駅を出て、ゆっくり朝食を食べて行くことにしました。
朝食を食べていなかった為ですが、マクドナルドか、すき屋の2択で、マクドにしました。
久しぶりにソーセージエッグマフィン食べましたわ(笑)
河原町駅 → 祇園四条駅 (徒歩)
祇園四条9:25 → 東福寺着9:30 (京阪本線準急・淀屋橋行)
東福寺(Tofukuji)
東福寺の駅を降りて、「あー!」と思いましたが、修学旅行生達が列を作っていました。
東福寺へ向かう途中、東京辺りの言葉を話す中学生の男女6名のグループと一緒に写真を撮って歩く感じになりましたよ。
「ちみ達、ちょっとは勉強になったかね?(笑)」
仁王門(重要文化財)
駅から南へ行き、東大路通を左に行ってすぐ右へ曲がり、東福寺への参道に入って右側に最初に見えてくるのが仁王門です。
北側には柵があって入れませんが、南側は道に面していて無防備ですね。
何も説明書きが無いので、見落としている人が多いのではないでしょうか?
退耕庵
退耕庵(たいこうあん)
東福寺の塔頭寺院である。貞和二年(1346)東福寺第四十三世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長四年(1599)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。
客殿は再興時に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の没後、客殿の中にある茶室作夢軒で、恵瓊、石田三成(いしだみつなり)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らが、関ヶ原の戦いの謀議を行ったと伝えられている。
庭園は、書院を挟んで南北二庭からなり、南庭は美しい苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は池泉式庭園となっている。
地蔵堂に安置する高さ二メートルの地蔵菩薩像〇〇、体内に小野小町(おののこまち)に寄せられた多数の艶書を納めていたことから玉章(たまずさ)地蔵の名で知られている。
〇〇慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。 (いくつか文字が判別できず)
同聚院
同聚院(どうじゅいん)
臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の一つである。
東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平(ふじわらのただひら)が法性寺(ほっしょうじ)を建立したところで、寛弘三年(1006)には、藤原道長(ふじわらのみちなが)が四十歳の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その跡地に九条道家(くじょうみちいえ)が東福寺を建立したのである。
本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のうち不動明王像(重要文化財)が幾多の災害を越えて祀られている。像は仏師定朝(じょうちょう)の父・康尚(こうしょう)の作品で、像高は二百六十五センチメートル、忿怒相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の一つである。「じゅうまん(=上が十、下が万)不動」と称され、「じゅうまん(=上が十、下が万)」の字を書いた屋守護の符が配布されている。「じゅうまん(=上が十、下が万)」は土地の守護を表す「土力」、又は、十万の一族・従者を従えるという意味の「十万」の二字を一字にした文字といわれ、日除けをはじめ除災の霊験あらたかな不動として信仰が深い。
東福寺の境内へ
日下門は修復工事中でした。
しかも作業中のおじさんが写ってしまうので、撮影せず。
日下門から境内に入ると、右斜め前に本堂、右に禅堂、左斜め前に方丈と庫裡、左に鐘楼と経堂が見えます。
禅堂の北に建つ鐘楼。漆喰壁に覆われた室町後期の建物。銅鐘(重要文化財)は平安初期を下らない鋳造とされ、もと西寺の遺物と伝わる(現在は収蔵庫に収納)。
東福寺
恵日山(えにちさん)と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家(歴史的には九条道家(くじょうみちいえ)と表記すべきか)が嘉禎二年(1236)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん、聖一国師)を開山に招いて、建長七年(1256)完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が立ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治十四年に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の座禅所)、東司(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。
禅堂(重要文化財)
禅堂(重要文化財)
室町時代 貞和三年(1347)
禅宗の叢林で重要な建物である禅堂である。選佛場とも称し、座禅を通じ自己究明と自己の心の佛を撰ぶ場所である。僧侶になるための修行道場であり、修行僧である雲水が、座禅はもとより寝食を行う所であった。昔は400名以上の僧が修行を行ったこともあった。
内陣の「選佛場」扁額は宋石径山万寿寺の無準師範(ぶじゅんしはん、佛鑑禅師)の筆であり、無準師範の心が残っている。無準師範は東福寺開祖聖一国師の師匠である。入り口の扁額「禅堂」は当山三百三世福島慶道管長の筆である。禅堂の大きさは桁行七間梁間四間、一重もこし付切妻造、本瓦葺である。我が国最大最古の道場である。
三門(国宝)
三門(国宝)
室町時代 応永十二年(1405)
東山三十六峰「慧日山」の麓に聳える国宝(指定:明治30年12月28日)「三門」。一般的には「山門」と表記され、寺域の入口(境)を指す。しかし、東福寺では「三つの門:三門」と表記している。この意味は、「三解脱門」の略で、涅槃に達するための通らねばならない門とされる。三つの門は「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」である。大きさは、五間三戸、二階二重門、入母屋造、本瓦葺、左右に階段を覆う山廊を有す。構造的には大仏様(天竺様)であるが、視覚的には禅宗様である。三門正面二階には北朝第四代将軍足利義持(あしかがよしもち)の筆である扁額「玅雲閣(みょううんかく)」が揚げられている。「妙」は「女」偏が一般的ですが、額は「玄」の偏を用い、本来の「玄」の意味である「奥深い道理」の意味を添え「妙」の意味の「真理・美しい」の意味を強化している。大きさは小さく見えるが畳三畳分あり、又、力強い筆運びである。二かい内陣中央に35歳と云われる宝冠釈迦如来坐像、左前に月蓋尊者、右前に善財童子、両側に十六羅漢が安置されている。周りには五百羅漢とも、森羅万象とも云われる木片が置かれている。
天井・柱には極彩色の迦陵頻伽(極楽に住む人面鳥身の架空の鳥)や飛龍(極楽に住む応龍)を描き、又金襴巻や牡丹唐草等で天上界を表している。天上界は悟りに達した精神界究極の世界を現わしていると言える。東福寺の僧である兆殿司・寒殿司の筆にて描かれ、三門内陣に心の存在を感じさせる空間を創造している。大屋根の四隅の角柱は、地震による三門の傷みを天正十三年豊臣秀吉が行った大修理の際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれている。
東司(重要文化財)
東司(重要文化財)
室町時代
「東司(とうす)」とは便所の建物を云い、俗に百間便所(百雪隠(ひゃくせっちん))と称し、子供たちは「100人便所」とも云っている。禅堂の横に必ず「東司」が置かれる。禅宗叢林の便所では日本最古最大で、現存する唯一の遺構です。
当時の排泄物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所を美味しい野菜で潤した。叢林としても現金収入の大きい糧となっていたと云われる。
境内の一番南に至ると、六波羅門(重要文化財)と、勅使門があります。
六波羅門のところに、変な(?)おじさんがずっと張り付いておられたので、後回しにしています。
防長忠魂碑
碑文に何が書かれているのか読めなかったので調べてみると、京都市役所のサイトに詳しく書かれてありました。
慶長四年(1868)一月三日に起こった「鳥羽伏見の戦い」で戦死した、48名の長州藩士の碑でありました。
浴室(重要文化財)
浴室(重要文化財)
室町時代 長禄三年(1459)
禅宗伽藍の現存最古の浴室である。現在でも使用できるほど現代的なシステムが採用されている。所謂「サウナ風呂」である。当寺は100人単位の僧侶が修行していた。沐浴に「お湯」を使用すると膨大な量となる。当然お湯を沸かす貴重な水はもとより、水を沸かす薪の量も多く、東山三十六峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。そのためお湯ではなく「蒸気」で体の垢をふやかし擦り落とすことで、お湯の使用量を格段に節約し、自然を大切にしたのである。今で云う「エコロジー」の精神である。自然の中に人間は生かされ、自然に感謝して生きる。禅の中には人間のみのエゴを捨て去り、地球規模での輪廻を詠っているのである。
構造は、東側に破風の二つの蒸し風呂が並び、各々板戸を立てている。後方に釜や焚き口が有り、蒸気を簀(す)の子を通して下から送る。大きさは、桁行三間梁間四間、一重正面入母屋造り・背面切妻造り、本瓦葺き。内部は正面板敷きの上に中央向唐破風。
五社成就宮
五社成就宮(京都府有形指定文化財)
室町時代 文禄三年(1594)
一間社流造、檜皮葺。
東福寺の鎮守社として石清水八幡・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社を祀るので五社明神社とも云う。もとは法性寺(925年摂政であった藤原忠平(ふじわらのただひら、941年関白太政大臣)の創建の総社)であって、摂政忠道(恐らく藤原忠通(ふじわらのただみち)の誤字)在世頃はその祭礼を総社祭と称し、祇園会に匹敵するほどの賑やかさであった。総社祭は東福寺の鎮守社となってからも引き続き行われ、寛元元年(1243)八月二十二日には九条道家(くじょうみちいえ)をはじめ右大臣実経(一条実経、いちじょうさねつね)や左大将忠家(九条忠家、くじょうただいえ)等が参列したという。今は毎年11月の第二日曜日にお火焚祭が催され、家内安全・無病息災・商売繁盛・学業上達の祈願を行っている。
十三重石塔(重要文化財)
1343年、九条道家が当寺創立を祈願して造立。全体の均整も良くとれており初重の梵字が美しい。
五社成就宮の一番奥に東福寺大鐘楼(京都府指定文化財)があります。
東福寺本坊庭園(国指定名勝)
庫裡
庫裡に方丈拝観受付があり、こちらから国指定名勝の東福寺本坊庭園を観に入ることができます。
東福寺のご朱印はこちらで頂けます。
東庭
雲文様地割に円柱の石で北斗七星を構成し、北斗の庭と呼ばれる。北斗七星に見立てた石は、もと東司の柱石の余石を利用したもの。後方には天の川を表した生垣が配され、夜空が足元に広がるかのような小宇宙を作りだしている。
南庭
「八相の庭」とは、四庭に配された「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「瀛洲(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」「八海(はっかい)」「五山(ござん)」「井田市松(せいでんいちまつ)」「北斗七星(ほくとしちせい)」の八つを、「八相成道(釈迦の生涯の八つの重要な出来事)」に因んで命名されたものである。
古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島があり、島には仙薬財宝があると信じられた。広さ二百十坪の枯山水庭園である南庭は、この四仙島を十八尺の長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表す。西方には「五山」になぞらえた築山を置き、その苔地と砂紋とを区切る斜線の表現も効果的である。南正面に設けられた向唐破風の表門は昭憲皇太后の寄進と伝わる。恩賜門とも呼ばれ、小型ながら明治期唐門の代表作である。
西唐門
西庭
さつきの刈り込みと砂地とを蔓石で方形に区切り、大きく市松模様に図案化する。井の字に等分した古代中国の田制「井田」に因み、「井田市松」と呼ばれる。北庭へ続く途中には「通天台」と呼ばれる舞台が設けられ、眼下に渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」を一望できる。
北庭
ウマスギゴケの緑との対比も色鮮やかな市松模様の敷石は、もと恩賜門に使われていたものである。サツキの丸刈りとの調和の妙も誠に印象深く、彫刻家・イサム・ノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評した。秋には、背景の紅葉の赤と聖一国師が宋より持来したといわれる唐楓「通天紅葉」の黄金色とが織りなす色彩感あふれる空間となる。
通天橋
方丈と開山堂を結んで架かる。ここから眺める渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉と新緑は絶景。黄金色に染まる珍しい三ツ葉楓は聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている。
方丈から通天橋への入口に当たるところは工事中でした。
その横に通天橋への拝観受付があります。
通天橋を渡って、左へ向かいます。
愛染堂(重要文化財)
丹塗の杮葺き八角円堂。南北朝時代の建築。昭和十二年万寿寺より移された。愛染明王を祀る。
月下門(重要文化財)
1268年の常楽庵建立時、亀山天皇が下賜されたと伝わる。今は普門院の総門。四脚門で檜皮葺、細部に鎌倉時代の特色が美しい。
開山堂の方へ向かいます。
通天橋まで戻ってきました。
通天橋から開山堂へ向かいます。
開山堂
開山堂(重要文化財)
1280年入定の聖一国師を祀る。楼閣そびえる伝衣閣(でんねかく)にある「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。普門院前の庭園は江戸中期の名園。
偃月橋(重要文化財)
方丈の東側まで移動してきました。
偃月橋(重要文化財)
三ノ橋川の上流に架かる木造橋廊。1603年の建築で単層切妻造の屋根は桟瓦葺。通天橋・臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれている。
龍吟庵 方丈(国宝)
偃月橋を渡ってしばらく行ったところにあります。東福寺三世・南禅寺開山である無関普門(むかんふもん)の塔所(墓所)として、入寂直前に創建されています。毎年11月に一般公開されるということですので、この時期には中に入れませんでしたね。
六波羅門(重要文化財)
六波羅探題の遺構を移築したと伝えられる。月下門と共に寺内で最も古い建築物。
最後に先ほど後回しになった六波羅門へ向かいます。
臥雲橋
臥雲橋を抜けたら、時間は11時になっていました。
次はいよいよ今熊野観音寺へ向かいます。
次回に続きます。
ここまでお読み頂きまして、ありがとうございます。
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