目次
- 1 第十四番札所 長等山 三井寺(園城寺)
- 1.1 往路
- 1.2 響け!ユーフォニアム ラッピング電車 一人撮影会@坂本駅
- 1.3 日吉大社(Hiyoshitaisha)
- 1.3.1 穴太衆積みの石垣
- 1.3.2 求法寺
- 1.3.3 日吉大社日吉三橋 大宮橋(重要文化財)
- 1.3.4 日吉大社日吉三橋 走井橋(重要文化財)
- 1.3.5 山王鳥居
- 1.3.6 日吉大社西本宮楼門(重要文化財)
- 1.3.7 ご朱印
- 1.3.8 日吉大社西本宮拝殿(重要文化財)
- 1.3.9 日吉大社西本宮本殿(国宝)
- 1.3.10 竈殿社(大宮)
- 1.3.11 日吉大社摂社宇佐宮拝殿(重要文化財)
- 1.3.12 日吉大社摂社宇佐宮本殿(重要文化財)
- 1.3.13 日吉大社摂社白山姫神社拝殿(重要文化財)
- 1.3.14 日吉大社摂社白山姫神社本殿(重要文化財)
- 1.3.15 日吉大社東本宮楼門(重要文化財)
- 1.3.16 日吉大社摂社樹下神社拝殿(重要文化財)
- 1.3.17 日吉大社摂社樹下神社本殿(重要文化財)
- 1.3.18 日吉大社東本宮拝殿(重要文化財)
- 1.3.19 日吉大社東本宮本殿(国宝)
- 1.3.20 日吉大社日吉三橋 二宮橋(重要文化財)
- 1.4 近江神宮(Oumijingu)
- 1.5 昼食
- 1.6 第十四番札所 長等山 三井寺 (Miidera) (園城寺)
- 1.7 元慶寺へ
- 1.8 西国三十三所番外札所 華頂山 元慶寺 (Gankeiji)
- 1.9 遍照僧正御墓
- 1.10 京都独り飲みのおススメ店
第十四番札所 長等山 三井寺(園城寺)
2016年6月6日の記事(改訂版)
5月31日
朝はどんよりした雲が浮かんでおりましたが、昼前からは晴れて暑くなりました。
天気が良いと写真が撮れ難くなって困るので、何とも良し悪しですね。
往路
さて、予定通り、園田発7:39発の電車に乗ったのですが、次の十三で乗り換えに失敗。
梅田行きの普通電車がちょっと遅れた感じでしょうか・・・。
乗っている電車が十三に着くのとほぼ同時に、京都行きの通勤特急が入ってくるのが見えて、めっちゃ急いだんですが、ホームへの階段を降りてるところで扉が締まるのを見て、
「行ったら、あかーん(涙)」
やっちゃった感が半端なかったです。
余裕を見て、園田で一本前の電車に乗るんでした・・・。
十三発7:46 → 長岡天神着8:14 (阪急京都本線通勤特急・河原町行)
十三発7:56 → 長岡天神着8:24 (阪急京都本線快速急行・河原町行)
長岡天神発8:16 → 東向日8:20 (阪急京都本線準急・河原町行)
長岡天神発8:26 → 東向日8:30 (阪急京都本線準急・河原町行)
東向日駅発8:31 → 向日町駅着8:41 (徒歩)
向日町発8:34 → 大津着8:53 (JR京都線快速・近江塩津行)
向日町発8:50 → 膳所着9:13 (JR京都線快速・米原行)
↓
京阪膳所発9:20 → 坂本着9:41 (京阪石山坂本線・坂本行)
坂本駅にて、ラッピング電車の一人撮影会!!
JR膳所駅と京阪膳所駅は、すぐに連絡できます。
JRから京阪大津線への乗り換えだけを考えれば、膳所での乗り換えは大変便利です。
結果、ちはやふるの1dayチケットは買えませんでしたが、本来の目的はラッピング電車の撮影にありますので、スパッと諦めました。
京阪膳所駅で入線してくるラッピング電車を見たら、ちょっと興奮しましたよ!
すぐ近くには欧米系の女性3人の観光客が居たのですが、彼女らも写真撮ってましたね(笑)
響け!ユーフォニアム ラッピング電車 一人撮影会@坂本駅
終点の坂本駅で乗客が居なくなったので、喜々として車内の写真を撮り始めたのですが、また自分がアホやったことに気が付きました。
ドアの内側にもユーフォの女神たちがラッピングされているんですが、ドアが開くと当然ドアの内側の絵が隠れてしまうのです・・・。
結果、久美子神を撮り逃しました・・・。
「あちゃー、やってもたー(涙)」
また、自分のアホさ加減に呆れてしまいました・・・。
更に、冬服がラッピングされている山側の面(ホームとは反対側)は、駅に停車している状況では撮れない事にも気が付きました。
これは石山寺駅でも同じ状況になる筈なので、撮影会はこれで終了になりました・・・。
日吉大社(Hiyoshitaisha)
京阪坂本駅を出て左にまっすぐ行けば、日吉大社に着けます。
全く迷う必要はありません。
穴太衆積みの石垣
大津市指定文化財
史跡
穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣
坂本では、延暦寺の里坊のみならず、街角の神社や古い民家の石塀などに特異な石積みがみられます。これは「穴太衆積み」と呼ばれ、坂本の大字「穴太」の一帯に古来より居住し山門の土木営繕的な御用を勤めていた「穴太衆」の技術によるものです。これは、門前町の重要な景観要素となっており、ことに日吉大社の表参道の左右の里坊地帯には、美しい代表的な遺構が見出せます。その特色は、加工しない自然なままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し、特にコーナーの整理された自然な美しさと堅固さにあります。
左へ行くと延暦寺へ行くケーブルカーの乗り場があるようですが、今日は右へ行きます。
求法寺
西受付を入って、ほぼ向かいに「求法寺(ぐほうじ)」があります。
滋賀県指定有形文化財
求法寺走井元三大師堂(ぐほうじはしりいがんざんだいしどう)
求法寺は、延暦寺登山口の本坂脇に位置する。由緒には、第一八世天台座主慈恵(じえ)大師良源(りょうげん)大僧正(元三大師)が、初登山の時ここで入山修行の決意を固めたことから求法寺と称されたとある。
この建物は、元亀二年(1571)に焼失の後、正徳四年(1714)に上棟されたものである。平面は、元三大師を祀る正堂(内陣)前面に、参詣の場である礼堂(外陣)が接続し凸型になっている。正堂は間口三間、奥行き三間、屋根は入母屋造である。礼堂は間口五間、奥行き三間で、中央部の三間×一間を内陣に取り込み、屋根は入母屋造、正面に軒唐破風を付け、全体を柿葺とする。
走井元三大師堂は、建築年次が明確な江戸時代中期の建築である。礼堂は、内部を広くするため柱を省略し虹梁、太瓶束にするなど、豪快な架構は近世の社寺建築のなかでも技術的に優れている。これは近くの西教寺本堂(重要文化財:1739年建立)にも共通する流派的特色で、棟梁中島次郎左衛門の技量のほどが良くうかがわれる。
厄除け大師
おみくじ大師
求法寺走井堂
本尊 元三大師(慈恵大師良源大僧正)重要文化財
脇仏 如意輪観音、三十三所観音、不動明王ほか
由緒
当堂はもと第四世天台座主安恵和尚(801~864)の里坊として創建された。のち比叡山中興の祖である第十八世座主慈恵大師良源大僧正(912~985)が、若き十二才のころ、比叡山への入山修行の決意を固められた浄域であるところから「求法寺」と名付けられた。また古来より波止土濃(橋殿)又は走井の地名に因んで本堂を「走井堂」と称している。本尊はご自作と伝える元三大師尊像(秘仏)であり、観音菩薩の化身としてその霊験は誠にあらたかである。
祈りなば 願ひも三つの橋殿や
寺の渡りぞ 弘誓なるらん
日吉大社日吉三橋 大宮橋(重要文化財)
重要文化財 建築物
日吉大社日吉三橋 大宮橋 一基
大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。
幅5.0メートル、長13.9メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫でつなぎ、その上に三列の桁をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。
両側に格座間を彫り抜いた高欄をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋です。
天正年間(1573~92)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のことです。
大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。
日吉大社日吉三橋 走井橋(重要文化財)
重要文化財 建築物
日吉大社日吉三橋 走井橋 一基
走井橋は、大宮橋のすぐ下流にかかるお祓いをするための石造反橋です。
日吉三橋の中で最も簡素な構造で、幅4.6メートル、長13.8メートルを測ります。川の中に方柱の橋脚をたてますが、その数も六本と少なく、また桁も省かれ、橋脚の頭に継ぎ材をおいて、橋板をかけています。橋板に反りをつけることで、軽快な感じをよく出しています。
走井橋の名は、橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来します。
天正年間(1573~92)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のことです。
大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。
猿塚
山王神使神猿(まさる)さんが退落すると葬られる塚で、草葉の蔭からも神域を見守っています
日吉大社 ご神徳
方除け・鬼門除け
当大社は、神代より比叡山にご鎮座する土地の神であります。
また平安京の表鬼門に位置することから、あらゆる厄魔を祓い除ける為、全国の著名な神社の神々をお招きしたことにより多くの摂末社が立ち並んでいます。
家内安全 東本宮
商売繁盛 西本宮・末社・稲荷社・恵比須社
安産 樹下宮・三宮
子育て子孫繁栄 末社・子安子立社
学業成就 末社・北野社
神々も人間と同様にそれぞれ特に秀でたご神徳をお持ちです。
各摂末社の巡拝をお勧めします。
山王鳥居
山王鳥居(さんのうとりい)
「日吉社神道秘密記」 惣合神門
於此内東向両大神宮拝念、関東諸国諸神記念処、西向記念同之
日吉大社独特の鳥居で、東に向かって伊勢の神宮を始め東日本の神々を、西に向かっては西日本の神々をそれぞれ拝することができる。
日吉神馬
神馬は神様のお乗りになる馬であり、神様への捧物でもあります。
山王祭にも神馬の渡御がございます。
馬は知性的で「柔順」「活力」を象徴し、「武運」「勝利」と「力」を祈念して絵馬を奉納しました。
「入試」「勝負事」の勝利をお祈り下さい。
京都御所(平安京)の鬼門(北東)は「猿ヶ辻」と呼ばれ、
方位の「魔去る」(鬼門守護・厄魔除け)
何よりも「勝る」(勝運・必勝・向上)と尊ぶ
日吉大社の「まさる」さんが祭られています。
住居や土地には神猿さんを祭り
日吉大神様のご加護を祈りましょう。
日吉大社西本宮楼門(重要文化財)
重要文化財 建築物
日吉大社西本宮楼門 一棟
楼門とは、二階建で階上に縁があり、屋根は上の一つしかない形式の門のことです。
西本宮楼門は、東本宮楼門と同様、三間一戸(戸とは出入口のこと)入母屋造、桧皮葺の建物です。東本宮楼門と比べると、規模は大きく、壮麗です。木部は丹塗を主としたもので、上下の釣り合いがよく、樹の縁によく映えます。四隅には猿の彫刻、前後に極彩色の蟇股があります。
確実な資料はまだ発見されていませんが、天正十四年(1586)頃に造営されたものではないかと推定されています。
大正六年四月五日に国の指定文化財となりました。
ご朱印
楼門を入ってすぐ左に西授与所があり、こちらでご朱印を頂けます。
日吉大社西本宮拝殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社西本宮拝殿 一棟
この拝殿は、方三間(桁行三間、梁間三間)、一重、入母屋造、檜皮葺、妻入りの建物です。
柱間は四方とも開け放して、屋根の妻飾りは木連れ格子、回り縁は高欄がつき、天井は中央部が一段と高くなった折上小組格天井となっています。
日吉大社の他の同じ形の拝殿のうちでは、一番手の込んだ構造となっており、天正十四年(1586)本殿と同時に建てられたものです。
昭和三十九年(1964)五月に重要文化財に指定されました。
御神木 桂
西本宮・大己貴神様(おおなむち)は奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)より、比叡山の麓にお越しになり、携えていた御杖をこの地に挿し立てたところ、桂の木に成長しました。
その由緒を尊び、毎年四月の山王祭では桂を冠に挿し、その御神徳を仰ぎます。
日吉大社西本宮本殿(国宝)
国宝 建造物
日吉大社西本宮本殿 一棟
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。
日吉造は、一名を聖帝造ともいい、全国では、日吉大社にだけみられる特殊な構造です。つまり、三間・二間の身舎の前面、両側面の三方に廂がめぐらされた形で、側面や背面にその特色を見せています。また、正面には、一間の向拝と浜床を付け、縁高欄が周りをめぐっています。
天正十四年(1586)に復興されたものですが、慶長二年(1597)に改造されています。
昭和三十六年(1961)に国宝に指定されました。
竈殿社(大宮)
竈殿社(大宮)
奥津彦神
奥津姫神
かまど(台所)の守護
食事・調理の神
日吉大社摂社宇佐宮拝殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社宇佐宮拝殿 一棟
この拝殿は、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。
典型的な方三間の拝殿形式をとっています。四方の柱間は、四方とも開け放し(吹放し)で、回り縁には高欄がつき、天井は小組格天井、屋根の妻飾りは木連格子(狐格子)となっています。
慶長三年(1598)に建てられたもので本殿と同じ時期のものです。
昭和三十九年(1964)五月に国の重要文化財に指定されました。
日吉大社摂社宇佐宮本殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社宇佐宮本殿 一棟
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。
西本宮本殿、東本宮本殿と同じく日吉造(聖帝造)の典型的なもので、三間・二間の身舎の前面、両側面に一間の廂をめぐらし、側面や背面に特色があります。他とは、ほとんど同じですが、正面の階段前に吹寄格子を入れた障壁が設けてあるのが大きく異なります。また、高い床下には大きな岩が露出していて何か意味ありげなものです。
慶長三年(1598)に建てられたものです。
明治三十四年(1901)八月に国の重要文化財に指定されました。
宇佐宮(うさぐう)
田心姫神(たごりひめのかみ)
(旧称、聖真子(しょうしんし))
西本宮・大己貴神の妃神
大分県、宇佐八幡宮の比売大神と同じ神とされ、当社では田心姫神が祀られています。
交通安全
航行安全
恋愛成就
日吉大社摂社白山姫神社拝殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社白山姫神社拝殿 一棟
この拝殿は、方三間(桁行三間、梁間三間)、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。
四方の柱間は、四方とも開け放し(吹放し)で、回り縁には高欄が付き、天井は小組格天井、屋根の妻飾りは木連格子(狐格子)となっています。
慶長三年(1598)に本殿と共に建てられたものです。
昭和三十九年(1964)五月に国の重要文化財に指定されました。
日吉大社摂社白山姫神社本殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社白山姫神社本殿 一棟
この本殿は、三間社流造、檜皮葺の建物で、三間・二間が身舎、その前方一間通しの廂が前室となっています。
この本殿と樹下神社本殿とは、ほぼ同形式となっていますが、装飾金具が少なく簡素な作りで地味な落ち着いた中にも、各部の意匠に意を配った建物です。また、向拝は一間で浜床付き、前室の正面は蔀戸となっています。
慶長三年(1598)に建てられました。
昭和三十九年(1964)五月に国の重要文化財に指定されました。
白山宮(しらやまぐう)
菊理姫神(くくりひめのかみ)
(旧称、客人(まろうど))
福井・石川・富山・岐阜にまたがる霊峰白山から勧請した神様です。「日本書紀」の神話には、イザナギ・イザナミの夫婦神の仲を取り持ったと記される、仲裁の神様です。
八王子山(標高381m)への入口。
三宮宮へ通じていますが、往復1時間かかるという事で、今回は諦めました。
日吉大社東本宮楼門(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社東本宮楼門 一棟
この楼門は、三間一戸の形式で、入母屋造、檜皮葺、縁付きの建物で、斗栱は上下層とも三手先となっています。三間一戸とは、柱間三つのうち中央の一つが出入口となっているものをいい、楼門とは、二階造の門で、屋根が二階の部分だけにしかなく、一階の上に縁がある形式をいいます。
西本宮楼門とは、やや違った比例を持っていて、どちらかといえば一階部分が高く、二階部分が低いので、すらりとした均整の取れた建物で、天正~文禄二年(1573~1593)頃に建てられたものです。
大正十二年(1923)三月に国の重要文化財に指定されました。
日吉大社摂社樹下神社拝殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社樹下神社拝殿 一棟
この拝殿は、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。
方三間といわれる拝殿ですが、他とは、柱間が四方とも格子や格子戸となっている点が異なっています。屋根の妻飾りは木連格子、天井は小組格天井、回り縁は高欄付きとなっていて、本殿と同じく文禄四年(1595)に建てられたものです。
なお、樹下神社の拝殿と本殿を結ぶ線と、東本宮の拝殿と本殿を結ぶ線が交わるのは、珍しいものです。
昭和三十九年(1964)五月に国の重要文化財に指定されました。
日吉大社摂社樹下神社本殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社摂社樹下神社本殿 一棟
この本殿は、三間社流造、檜皮葺の建物で、後方三間・二間が身舎、その前方一間通しの廂が前室となっています。
数ある流造のなかでも比較的大型のもので、床下が日吉造と共通した方式であることや向拝階段前に吹寄格子の障壁をたてているのは、この本殿の特色となっています。
文禄四年(1595)に建てられたことが墨書銘によってわかりますが、細部の様式も同時代の特色をよく示し、格子や破風、懸魚などに打った飾り金具は豪華なものです。
明治三十九年(1906)四月に国の重要文化財に指定されました。
日吉大社東本宮拝殿(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社東本宮拝殿 一棟
拝殿は、本殿の前に独立する方三間(桁行三間、梁間三間)、一重、入母屋造、檜皮葺、妻入りの建物です。
四方の柱間は吹放しで屋根の妻飾(屋根の三角部分)には木連格子(縦横の細かい格子)を入れています。また廻縁には高欄がつき、天井は小組格天井となっています。
「文禄五年三月吉」の墨書がある天井の格縁が一本残されていて、1596年頃の建築であることがわかります。
昭和三十九年五月二十九日に国の指定文化財となりました。
日吉大社東本宮本殿(国宝)
国宝 建築物
日吉大社東本宮本殿 一棟
この本殿は、桁行五間、梁間三間、日吉造、檜皮葺の建物です。
日吉造は、一名を聖帝造といい、三間・二間の身舎の前面、両側面の三方に廂がめぐらされた形をし、側面、背面が特徴のあるものになっています。この様式は、全国でも日吉大社にのみ現存している形で重要なものです。
東本宮本殿は、西本宮本殿とほぼ同様の造りですが、背面の三間の床が一段高くなっているのは、異なるところです。
文禄四年(1595)に西本宮本殿に引き続いて復興された日吉造の代表建築です。
昭和三十六年(1961)四月に国宝に指定されました。
東本宮(ひがしほんぐう)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
(旧称、二宮(にのみや)、小比叡(おびえ))
比叡山の地主神で、比叡山系一帯を守る神様です。ご鎮座は西本宮よりも古く、和銅五年(712)成立の「古事記」神話にも登場します。
山林守護
家内安全
夫婦円満
良縁成就
龜井靈水
昔、ここには池があり、伝教大師参拝の折、霊亀が現れた。占いによりここを閼伽井(あかい)(仏様に捧げる水を汲む井戸)となし、「亀井」と名付けられた。最名水也
新物忌神社(新行事社)
天知迦流水姫神
水の神
水商売の守り神
葵 ~あおい~
日吉大社・東本宮の御神紋は「葵」でございます。
東本宮・家内安全のご利益にふさわしいハート型の葉は、見る者の心を和ませます。
氏子様のご協力を頂き、ここの大切に葵を育てています。
日吉大社日吉三橋 二宮橋(重要文化財)
重要文化財 建造物
日吉大社日吉三橋 二宮橋 一基
二宮橋は、東本宮(二宮)へ向かう参道の、大宮川にかかる花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式によって造られたものです。
川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、その上に三列の桁をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡し、両側に高欄をつけています。
上流にかかる大宮橋とほぼ同規模で、幅5.0メートル、長13.9メートルを測りますが、構造はより簡単で、橋脚の貫もなく、高欄も板石と擬宝珠付親柱で構成されています。
天正年間(1573~92)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のことです。
大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。
近江神宮(Oumijingu)
次に向かうのは近江神宮です。
坂本駅に戻るとびっくり!
ラッピング電車が入線してきましたよ(笑)
さっき撮り逃した久美子神の撮影タイミングを図ったのですが、車掌の女性がドアの前に立っていて、ダメでした・・・。
近江神宮前とは言いながら、駅から500mほどあります。
駅から来ますと、一の鳥居と二の鳥居の間の参道にぶつかるので、そこから境内に入ります。
楼門
大学生くらいの女性二人が、「ここ!」とか言いながらはしゃいでいたので、楼門前の石段は「ちはやふる」の名場面なのでしょうね!
楼門にある授与所まで行くと、実写版の「劇場版ちはやふる」のポスターが貼ってありました。
流鏑馬が6月5日にありますな!
一度見てみたいものです。
授与所でご朱印が頂けます。
拝殿
時計
時計館、宝物館に立ち寄り、ここでしか買えないという「ちはやふる」のクリアファイルを購入。
最後に一の鳥居を見て近江神宮を後にしました。
昼食
一の鳥居を出たら12:40頃になっていたので、浜大津へ出て先に昼食をとることにしました。
先に調べていた「麺せい」さんにて、定番の親子丼を美味しく頂きました。
第十四番札所 長等山 三井寺 (Miidera) (園城寺)
いよいよ三井寺へ向かいます。
途中、琵琶湖疏水を渡っていきます。
琵琶湖疏水
琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上(けあげ)へと流れる人工の水路です。延長約9キロメートル。
京都市の飲料水、発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。
第1疏水は明治十八年(1885)、青年技師田邊朔郎(たなべさくろう)の指導の下に着工、同二十三年に開通。第2疏水は明治四十五年(1912)に完成。
工事が国家的レベルの事業であったことを示すように、隧道の各洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています。
桜シーズンに見られる水と桜による美しい風景が評判です。
大門(仁王門)(重要文化財)
こちらを入ると、受付があります。
言い訳になってしまいますが、天気が良過ぎたのと、時間の関係で逆光になってしまい、上手く撮れてない写真が多くなってます・・・。
重要文化財 建造物
園城寺大門(仁王門) 一棟
この大門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の楼門です。宝徳四年(1452)に滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられ、のち伏見城に移され、さらに慶長六年(1601)徳川家康の寄進によって園城寺へ移されたもので、仁王門とも呼ばれています。
楼門としては、正規の手法にのっとったもので、全体の均斉もよくとれた美しい姿をしています。また、檜皮葺の屋根がやわらかい感じを与えています。その他、細部の蟇股や木鼻などの彫刻や斗栱などの組物に室町時代中期の特色が見られます。いずれにしても楼門のなかでも代表作にあげられるものです。
明治三十三年四月に国の指定文化財になっています。
三井寺
(天台寺門宗総本山)
三井寺は正式には園城寺と称し、創建以来千三百年の歴史と数数の史実や伝説に満ちあふれた巨刹である。平安時代には四箇大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)の一つに数えられ、現在も山岳寺院として長等山山腹に広大な境内地を有している。
境内に散在する国宝や重文の建物をはじめ、諸堂宇の景観はさながら建築博物館の様を呈している。なかでも金堂(慶長四年(1599)建立)は、桃山建築の粋をこらし、檜皮葺の入母屋造りがすばらしい。また近江八景の一つ三井の晩鐘や、西国第十四番の霊場である三井寺観音堂などもよく知られ、多くの参詣者で賑わっている。
園城寺食堂(釈迦堂)(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺食堂(釈迦堂) 一棟
食堂は、桁行七間、梁間四間、一重、檜皮葺、入母屋造の建物で、もと御所の清涼殿であったという伝承があります。現在は釈迦如来がまつられ、釈迦堂の名称で親しまれています。
全体としては簡素な建築で、後世の改造も多く、唐破風の向拝は江戸時代に付けられたものですが、内陣部分や須弥壇には古い手法が残されており、特に須弥壇に精巧な彫刻が施されています。
建築年代は室町初期と推定され、正面一間通りが開放となっているところや、扉口が両端の間のみにあるところは、かつての食堂の形式を伝えているものと考えられています。
明治四十五年(1912)二月に国の重要文化財になりました。
辨財天社
(天和三年(1683)建立)
御本尊の辨財天は八臂像で鉾、剣、斧、鈷、輪、索弓、矢を執り能弁及び学問、技芸の徳を備える女神である。
また、人をして無礙弁財を具足し福智を増益し、延寿及び財宝を得しめる神として古くより崇拝されている。
園城寺金堂(国宝)
智証大師(園城寺御開山)御遺誡
如来(ほとけ)は法(真理)を以って身と為し比丘(仏道にいる者)は慧(真理の知恵)を以って命と為す法慧苟も(いやしくも)伝わらば何ぞ死(生死の超越)有らむや
(註)
仏様は宇宙の真理をもって不滅の命(法身)とし給ふ。仏道を修業する者は仏教の教え心理の智慧をもって使命とすべきである。是の如く真理とそれを実践教導する道が両輪の如く、活かされ伝えるならばこの身は滅ぶとも法慧は滅びず永遠に続くであろう。汝等悲しむべからず。能く精進、能く努力すべし。
国宝 建造物
園城寺金堂 一棟
この金堂は桁行七間、梁間七間一重入母屋造檜皮葺の大建築で落ち着いた美しい建物です。
園城寺の中心をなす金堂は、幾多の変遷を経ましたが、現在の建物は慶長四年(1599)に豊臣秀吉の夫人北政所によって建てられたものです。桃山時代の特色が向拝の手挾や蟇股などにみられるほか、内外陣を格子戸や扉で仕切り、外陣・後陣・脇陣を板敷(床張り)に、内陣を土間にするなど天台密教寺院における仏堂の特色をよくあらわしています。
また、内陣に安置されている厨子も様式からみて同時代の作とされています。
桃山時代の代表的なすぐれた建造物で、昭和二十八年三月に国宝に指定されました。
園城寺鐘楼(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺鐘楼 一棟
「三井の晩鐘」で有名な梵鐘の掛けられている鐘楼で、桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺の建物です。
建築年代は梵鐘の「慶長七歳云々」とある刻銘文や、建築様式などから桃山時代と認められ、金堂再建に近いころに建造されたものと考えられています。破風の懸魚などにその時代の特色が出ています。
また、一般の鐘楼のように四本柱、或いは袴腰付きのものではなく、やや異なった様式を持っています。
昭和四十二年六月に国の指定文化財になっています。
近江八景
三井の晩鐘
近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名なこの鐘は、音の三井寺として日本三銘鐘のひとつにも数えられ、また平成八年七月には環境庁より「日本の音風景百選」にも認定されている。
この鐘は慶長七年(1602)、古鐘・弁慶の引き摺り鐘の後継ぎとして鋳造されたもので、鐘楼(国の重要文化財)と共に県の文化財に指定されている。
目方は六百貫(二二五〇キログラム)。除夜の鐘の百八煩悩に因んで、鐘の上部には乳といわれる百八箇の突起がある。
園城寺閼伽井屋(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺閼伽井屋 一棟
閼伽井とは、仏前に供養する水を汲む井のことで、閼伽井屋はその覆屋として建てられたものです。
建物は、桁行三間、梁間二間、向唐破風造、檜皮葺の建物で、慶長五年(1600)に金堂に引き続いて再建されました。金銅の西側、軒下に接して建つ閼伽井屋は向唐破風の形式や附属する彫刻、蟇股などが美しく、桃山時代の特色を持っています。
内部には、天智・天武・持統の三天皇の産水となり、三井寺の名の起こりとなった湧泉が石組の間から湧きでています。
明治三十九年(1906)四月に国の重要文化財になりました。
重要文化財
閼伽井屋
天智・天武・持統三帝御降誕の時、この井水を取って産湯とし玉体を祝浴された。よって「御井」と云ふ。茲に園城寺が建てられて俗に「三井寺」と云われた。後、智証大師三部灌頂の閼伽に用いてから「御井」を「三井」に改め寺号となる。往昔、御所の御者寄を賜り閼伽井屋として建てられて後、慶長三年(1598)豊公、北政所、之を再興修理せられた。正面上部には名匠左甚五郎作の龍の彫刻があり、夜な夜な琵琶湖に出て暴れるので目玉に五寸釘が打たれている。屋根は大唐破風で金堂の素木に対して極彩色を施してある。
閼伽井石庭
日本最古の庭園である。
蓬莱山と云い東海中にあって仙人が住み不老不死の地と考えられている霊山を形取った石組である。中央より人、神佛、鶴、亀と配されている。
弁慶の引摺鐘
辨慶の引摺鐘
奈良時代前期の鋳造で、むかし俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと、藤原秀郷)が百足(むかで)退治のお礼に龍神より貰い当寺に寄進されたと伝えられる有名な鐘である。辨慶が引き摺った疵痕(きずあと)が残っている。
辨慶の汁鍋
むかし、武蔵坊辨慶はじめ多くの僧兵が汁を造って飲んだと伝えられる汁鍋である。 (撮り忘れ)
園城寺一切経蔵(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺一切経蔵 一棟
一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大経蔵ともいう)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。
この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形造、檜皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、裳階を付けているため、柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。
なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元(もうりてるもと)によって慶長七年(1602)に移されたものといわれています。
明治三十九年(1906)四月に国の重要文化財になりました。
一切経蔵
慶長七年(1602)毛利輝元公が山口県の洞春寺より移築したもので、輪蔵に納められた一切経は高麗版として名高い。
建物は室町時代の作。
重層宝形造りと称し唐様建築で上部は「鏡天井」、四方は「明層」と云い、高い所から光を取り入れる仕組みである。
輪蔵は八角破風造り、八方に千鳥破風を作り、龕内に経蔵の守護である中国の人、傅大士を安置する。
(ブログ管理人 注)上記の国清寺(こくせいじ)と洞春寺(とうしゅんじ)は同じ寺。
もと、応永11年(1404年)室町時代前期の守護大名 大内盛見(おおうちもりはる)が建立した寺が国清寺。毛利輝元が防長に転封された後に、祖父元就、父隆元の菩提寺である洞春寺の名を称した。
園城寺塔婆(三重塔)(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺塔婆(三重塔) 一基
この三重塔は、もと大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長六年(1601)に移したもので、大和地方における中世の塔の風格をもっており、鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされています。
塔は、三間三重の塔婆の形式で、本瓦葺の屋根をもち、各重の落ちも大きく、初重目に縁をつけています。また、二重目、三重目に菱格子を用いているのは珍しいものです。
明治三十九年四月に国の指定文化財になっています。
唐院
灌頂堂(重要文化財)、唐門(重要文化財)、大師堂(重要文化財)、長日護摩堂などがある。智証大師円珍(ちしょうだいし えんちん)が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。
滋賀県指定文化財 建造物
園城寺長日護摩堂 一棟
この護摩堂は、桁行三間、梁間三間、一重宝形造、本瓦葺の小堂で、灌頂堂と渡廊下によってつながっています。
全体として簡素な建物で、正面は桟唐戸、両脇を連子窓、両側面の正面よりを舞良戸、他は背面を含めて横羽目板壁としています。
建立年代については、明確な資料はありませんが、寺伝によると後水尾天皇(ごみずのおてんのう、第百八代天皇、在位1611~1629)の祈願により建てられたものといわれています。
大師堂、灌頂堂よりは少し遅れて建てられたものと考えられています。
昭和三十五年(1960)一月に滋賀県の有形文化財になりました。
重要文化財 建造物
園城寺唐院四脚門 一棟
唐院は智証大師円珍が入唐して天安二年(858)に請来した経巻・法具類を貞観十年(868)に納め、伝法道場としたことにはじまります。
四脚門は唐院の表門で、奥へ灌頂堂、唐門大師堂と一直線に並ぶ最前列の位置にあります。
この門はもともと棟門形式として建立されましたが建立後まもなく四脚門に変更されたものと考えられています。屋根は切妻造檜皮葺で数回葺きかえが行われています。
昭和四十八年の修理工事によって寛永元年(1624)に建立されたことがわかりました。
昭和四十二年六月に国の指定文化財となりました。
智證大師御廟所
當山の開祖智證大師の御廟所で寛平四年増命、圓敏等の創建、千年以前の有名な大師の眞像(重要文化財 御骨大師)と大師の尊像(重要文化財 中尊御像)及び黄不動尊(重要文化財)とを安置する
毎年十月二十九日の祥月忌日には中尊御像を開扉して報恩大法要を行う
現在の建物は慶長三年の再建である
灌頂堂
唐院と名付け貞観二年清和天皇の勅創、仁壽殿を賜り此に移遷し傳法灌頂の道場とした
現在の建物は慶長三年の再建である
三重塔
此の塔は、もと大和國比蘇寺に在ったものを豊臣秀吉が伏見城に移し、慶長六年徳川家康が更に當寺に寄付して此に移す
党内に安置する釈迦、文殊、普賢の三尊は後陽成天皇第七回御國忌禁中御八講の本尊である。
長日護摩堂
寛文六年後水尾天皇の勅により再建されたもので、本尊不動明王は運慶の作なり
鎮護国家の爲め長日に亙り護摩供を修する道場である
園城寺勧学院客殿(国宝)
村雲橋
開祖智証大師が、この橋をお渡りになっている時、中国の青竜寺が焼けていることをお悟りになった。
閼伽井の水を以ってお播きになると橋の下から村雲が湧き起こり、中国に向かって飛び去ったが翌年、青竜寺から鎮火のお礼の使者が来たという
国宝 建造物
園城寺勧学院客殿 一棟
勧学院客殿は、桁行七間梁間七間一重入母屋造妻入で東正面に軒唐破風を付け、また桁行一間梁間一間一重切妻造の中門を設けた総杮葺の建物で、光浄院客殿と外観はほとんど同じですが、規模はやや大きく、内部では光浄院が二列からなるのに対して三列の九室からなっています。
この客殿は慶長五年(1600)に建てられたもので、主室の一の間には正面に大きな床をとり、その北隣の室に床と附書院を設けています。
内部の壁や襖は華やかな障壁画によって彩られています。また長押や扉に打たれた金具もよく時代的な特徴を持つなど桃山時代の書院造として貴重なものです
昭和二十七年十一月に国宝に指定されました。
微妙寺
園城寺別所
微妙寺
開基 慶祚大阿闍梨 正暦五年(994)
本尊 重要文化財 十一面観世音菩薩
本堂 安永五年(1776)再建
微妙寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ。別所とは平安期以降、広く衆生を救済するため本境内の周辺に設けられた園城寺の別院で、当時の他に水観寺・近松寺・尾蔵寺・常在寺があり、総称して園城寺五別所という。
当時の本尊は、十一面観音(重文)で除病、除難、減罪を誓願とする仏として、特にその霊験のあらたかなことで有名である。
往時には、境内に参詣者の群をなし、そのためかぶっている笠が破れ脱げる程であったと伝え、俗に「はずれ笠の観音」「笠ぬげ観音」として親しまれ道俗の帰依をあつめている。
天台智者大師
天台大師は西暦538年、中国荊州華容県に生まれ、南岳、大賢山に修行し、十八才にて受戒、光州大蘇山の慧思禅師に師事し、法華三昧を体得された。その後、金陵(南京)の瓦官寺で法華経と禅法を説き、三十八才、天台山に修禅し法華円頓、実相中道を証悟された。
陳皇帝に招かれて四十八才に、金陵で法華文句を説き、また玉泉寺に法華玄義摩訶止観を説かれた。その後、西暦597年石城寺に入滅さる。
智証大師入唐求法して天台山に修禅し、以って法華円教、この長等山に輝く。天台大師一千二百年遠忌に際し、報恩謝徳の誠を捧ぐ。
園城寺毘沙門堂(重要文化財)
重要文化財 建造物
園城寺毘沙門堂 一棟
毘沙門堂は、正面一間、側面二間、一重、宝形造、檜皮葺の小建築で、極彩色を施した唐様式の建造物です。もとは、園城寺五別所の一つでありました尾蔵寺の境内南勝坊にあったもので、明治四十二年(1909)に山内に移され、昭和三十一年(1956)解体修理にともなって、保存管理の上から現在地に移されました。
建立についてのはっきりした資料はみあたりませんが、寺蔵の「元禄五寺社改帳」によれば、南勝坊の造立が元和二年(1616)とされています。組物・軒廻り・天井などの形式手法から、近世初頭の特徴をよく表しています。
昭和二十七年(1952)三月に国の指定文化財となりました。
園城寺観音堂
百体観音堂
県指定文化財
西国坂東秩父の百観音を祀る
宝暦三年(1753)建立
謡曲「三井寺」と観月舞台
「駿河の国清見が関の女が今日の清水観音に参籠し、行方知れずになった我が子千満丸との再会を祈るうちに霊夢を得て近江の三井寺に来た。折しも中秋名月の夜、、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ子を求めて心乱れる母親を、図らずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され、共に郷里に帰ることができた。」という物語が謡曲「三井寺」である。観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。
観月舞台は月見の絶好の場所で、謡曲「三井寺」を謡いながらその脳裏に様々な場面を描く事であろう。
県指定有形文化財
三井寺観音堂
観音堂は園城寺南院札所伽藍の中心的建物で如意輪観世音菩薩(重要文化財)を祀る。
建立年代は棟札により元禄二年(1689)に再建上棟したことが知られる。
建物は正堂(仏像を安置する部分)と礼堂の造り合いで繋ぐ複合建築である。
礼堂は桁行九間、梁間五間の重層入母屋造本瓦葺で側廻りは面取り角柱に舟肘木をのせ漆喰壁をつけて簡素にまとめる。
正堂と礼堂を繋ぐものが合いの間で、この天井は化粧屋根裏として軽快な意匠である。
正堂は柱、虹梁などに極彩色をつけ元禄期の華やかさをみせる。
こちらに売店があり、絵馬堂の下で休憩できます。
この時点で15時前となっており、次の元慶寺への移動時間を考えて、麓にある長等神社へ抜ける階段を降りていきました。
ご朱印
西國第十四番
近江國 大津
御本尊如意輪観世音菩薩
いでいるや なみまのつきを みいでらの かねのひびきに あくるみずうみ
開基 大友与多王
建立 持統天皇二年
滋賀県大津市園城寺町
天台寺門宗 長等山 園城寺
長等神社
大津市指定文化財
建造物
長等神社楼門 一棟
この楼門は、三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の構造をもっています
技師安藤時蔵、技術員青池安太郎の設計の下に明治三十七年(1904)五月起工され、同三十八年二月に竣工しました。
この楼門は、比較的小型ながら、上・下の均整が美しく、左右の広がりも適度に、また各部の曲線も美しくとられ、、優れた姿をしています。
室町時代頃の様式に則った秀作で、明治時代の楼門の代表作とされています。
また、建築に係る棟札や図面などの資料もよく保存されています。
昭和四十七年七月一日大津市の指定文化財となりました。
元慶寺へ
浜大津まで徒歩で移動し、京阪電車の京都方面へ向かう途中にある御陵(みささぎ)駅まで乗ります。
浜大津発15:33 → 御陵着15:49 (京阪京津線・太秦天神川行)
この路線は山越えになっており、乗っていて非常に楽しいです!
さて、実際に行って思ったのですが、駅から元慶寺までの案内が全くないので、非常にわかりにくいです。
詳しい地図が無いと迷ってしまうと思いますわ。
歩いたルートを簡単に。
御陵駅の三番出口を出て左に進み、最初の信号を左に曲がり、道なりに緩やかな下り道を南に進んでいきます。
住宅地を抜けると両側に田んぼがある道に出てきて、どんどん道が細くなっていきますが、道は続いているので大丈夫です。
JR東海道本線の下のトンネルを抜けてしばらく行くと、花山中学校にぶつかります。
ここで右に折れてしばらく行くと、華山寺が左に見えます。
華山寺の外壁を回るように、左への細い道を入って、壁伝いに左折、更に道なりに進んで右へ折れると、元慶寺に入る小道が右にあります。
本来のルートではないようですが、こっちの方がわかりやすいかと思います。
人気が無かったので、ある意味ちょっと怖いですが・・・。
西国三十三所番外札所 華頂山 元慶寺 (Gankeiji)
元慶寺縁起
開基は桓武天皇(かんむてんのう)の孫にあたる遍照僧正(へんじょうそうじょう)。遍照は仁明天皇(にんみょうてんのう)の崩御に従い出家し、延暦寺で仏門に入り、貞観十一年(869)に華山寺を創建したとされている。その後、元慶元年(877)に清和天皇(せいわてんのう)の勅願寺となり、華山寺から元慶寺に名称を変更したと伝えられている。
応仁の乱までは寺域も広かったが、応仁の乱で寺が焼失してから、現在見られるような小さい規模の寺になったといわれている。
花山天皇(かざんてんのう)が、寛和二年(986)19歳の時に出家して花山法皇となったのが、この元慶寺であるとされている。花山法皇は廃れていた西国三十三所観音霊場を復活させた人で、西国三十三所観音霊場巡礼 中興の祖として知られている。
梵天と帝釈天があったが、現在は京都国立博物館に寄託されているそうです。
門をくぐると石畳の道があり、正面に納経所、左手に本堂が見えます。
境内が狭いので、石畳の道だけという印象です。
薬師如来の他に遍照僧正の作と伝えられている木像があるそうですが、本堂の中は見えません。
番外
巡禮中興聖蹟 元慶寺
御本尊薬師如来
まてといわば いともかしこし はなやまに しばしとなかん とりのねもがな
開基 遍照僧正
建立 元慶元年
京都市山科区来た花山河原町
天台宗 華頂山 元慶寺
遍照僧正御墓
遍照僧正の墓が近くにあると案内があったので、立ち寄ってみることにしました。
元慶寺の参道を南に行って府道116号線を右へ折れて150mほど行き、信号を左に曲がって200mほど行った左側に遍照僧正の墓がありました。
ちょっと分かりにくいかもしれません。
遍照僧正は六歌仙の一人として知られています。
百人一首 12番
「天津風(あまつかぜ) 雲の通ひ路(かよひじ) 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
御陵駅への帰り道は、そのまま北に上がっていくと、御陵駅近くに出るので行ってみました。
但し、車の往来が結構あるにも関わらず、歩道が狭い為、あまりこちらの道はお勧めしません。
東海道本線の下をくぐるのに地下道を歩きましたが、なにやら怖い気配が漂っていました・・・。
京都独り飲みのおススメ店
前から行きたいと思っていたお店が阪急河原町駅の近くにあります。
「益や酒店」
17:30から開くので、寺町や新京極辺りをブラ歩きしながら行ってみました。
店に入ると結構賑わっていて、スタンディングで様子見をしました。
奥行きもあって、結構人数が入りそうな感じがしました。
美人の店主さんやお店の娘達が明るく良い感じで動き回っていて、客を飽きさせない感じがします。
牛すじをあてにして、京都の玉川と招徳を一杯づつ頂きました。
大変美味しゅうございました。
河原町にはよく行きますので、また行ってみようと思います!