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第二十四番札所 紫雲山 中山寺(Nakayamadera)
2016年8月29日の記事(改訂版)
8月27日
前日までの猛暑が嘘のように、どんより曇って暑さも控えめです。
こんな天気だからこそウォーキングに出なければ! という事で行ってきました。
次の参拝計画は、第二十四番札所 紫雲山 中山寺(Nakayamadera)と、番外札所 東光山 花山院菩提寺(Kazanin-Bodaiji)です。
往路
ご朱印帳を持って出るのを忘れるという失態があり、一旦取りに帰りまして、少し出遅れました。
すぐに気が付いて良かったですわ。
経路を調べてみると、十三経由で宝塚線に乗っても、あまり時間が変わらなかったので、そちらに変更です。
西宮北口経由にしたのは、元々平日に行くのを想定していたので、混むのを避けたんでした。
園田発8:36 → 十三着8:41 (阪急神戸本線・梅田行)
十三発8:43 → 中山観音着9:08 (阪急宝塚本線急行・宝塚行)
中山観音駅に着くと、参拝客がもうちらほらと居られます。
第二十四番札所 紫雲山 中山寺(Nakayamadera)
駅から歩く事、ほんとに1分、中山寺の山門が見えてきました。
記念撮影をしておられる家族連れが居られるので、空くまでの間、境内図を頭に叩き込みます。
境内がめちゃくちゃ広いんですよ。
憶えきれません(笑)
元々ここ中山寺は、子授け、安産祈願、また出産のお礼などでの家族連れが多く訪れられるお寺で、この日は土曜日という事もあって参拝者が多く、後から画像を編集するのが面倒臭いので出来るだけ人が写らないようにするので、写真を撮るのには苦労しました。。。
参道には塔頭寺院が並んでいるのですが、とりあえず後回しにしました。
手水舎
石段を上った左手にありました。
境内略図がありましたが、広過ぎてわかりません(笑)
結局、スマホで中山寺の公式サイトの鳥瞰図を見ながら回りました。
鐘楼堂
手水舎の隣にありました。
先ずは左手が気になったので進んでいます。
寿老神堂
鐘楼堂の斜め向かいに寿老神堂がありました。
寿老神堂
本尊の寿老神は、「寿老人」ともいいます。七福神に数えられる寿老神は、福禄寿と同様、その起源は中国の民間信仰が取り入れられたものです。寿老神は老人星の化身であるとも、老子であるともいい、七福神の中では長寿の象徴とされ、杖を携えて玄鹿を伴ったお姿でよく表されます。
御堂の客殿(向かって左側)として、午歳生まれの人の守り本尊である勢至菩薩をお祀りしています。勢至菩薩は正しくは、大勢至菩薩といいます。智慧の偉大な力で人々の迷いを除くほとけです。
ご真言はオン サンザンサク ソワカ といいます。
大黒堂
更に進むと大黒堂がありました。
大黒堂
本尊の大黒天は、梵名でマハーカーラといい、摩訶迦羅と音写され、大黒天・大黒天神と漢訳されます。古代インドにおいては、シバ神と同体である大自在天の化身でありました。仏教のほとけに取り入れられてからは、仏教寺院の守護神、さらには、財福神としての性格が与えられました。我が国においては、「大黒」が「大国」との音通により、大国主命と習合して、右手に打ち出の小槌を持たせ、米俵に載るお姿に発展しました。この大黒天像は、日本の大黒天の姿になっています。
御堂の客仏として、子歳生まれの人の守り本尊である千手観音坐像をお祀りしています。千手観音は、正しくは千手千眼観自在菩薩といいます。
ご真言はオン バザラ タラマ キリク といいます。
石の櫃
大黒堂の隣に石の櫃(いしのからと)がありました。
石の櫃
中山寺古墳は、寺伝によれば第十四代仲哀天皇の后 大仲姫の墳墓とされ、別名「石の櫃」とも称されます。
古墳洞内の大きさは、横幅2.5メートル、奥行き3.6メートル、高さ3.2メートルです。石窟内には、石棺が安置されています。正しく上代の陵墓制であることは明らかで、貴重な史跡といえます。
県指定文化財
中山寺古墳
昭和三十五年五月十二日指定
本墳は南面する両袖式の横穴式石室で、石棺を安置する玄室は、長さ5.5m、巾2.4m、高さ3mあり、羨道は長さ8.5m、巾約1.2m、高さ約2mで巨石をもって造られている。
石棺は、蓋石に縄掛突起をもち、棺身が刳抜式の家形石棺である。巾1.06m、長さ1.8m、高さ1.2mで、この形式の石棺のなかでは代表的なものといえる。
本墳の建造年代は、六世紀後半頃と考えられ、古墳時代後期に、この西摂地方に勢力をもっていた豪族の墳墓と考えられる。
西摂平野の縁辺に数多い古墳中、後記古墳の著例として貴重な文化遺産である。
昭和四十九年十月 兵庫県教育委員会
説明書にはありませんが、かの徳道上人がお納めされ、花山法皇がお取り出しになったという観音霊場三十三ヶ所の宝印は、ここの石棺に納められていたのでしょうか!?
ご朱印
最初の石段を登ったところまで戻り、右にある納経所へ向かいまして、ご朱印を頂きました。
納経所で、境内の案内図が貰えないかと思ったのですが、ありませんでした。。。
西國第二十四番
攝津國 中山寺
御本尊十一面観世音菩薩
のをもすぎ さとをもゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため
開基 聖徳太子
建立 推古天皇十二年
兵庫県宝塚市中山寺
真言宗 紫雲山 中山寺
五百羅漢堂
納経所の右手に五百羅漢堂がありました。
五百羅漢堂
平成九年(1997)建立
「親兄弟の 顔が見たくば 中山寺の 五百らかんの 堂にござる」の古歌に詠まれる当山の五百羅漢堂は、開創千四百年記念事業の一つとして、新築されたものです。
堂内には釈迦如来を本尊として、そのお弟子である羅漢さんを七百有余体もお祀りしており、如来の説法を聴聞するお姿を再現しています。天上には金剛界五仏と釈迦如来の種字曼荼羅が描かれ、床には蓮華の陶板が敷かれていますが、これは人間の心が本来清浄であることを示し、一度、曼荼羅に坐し、至心に仏を念ずれば、必ず悟りが開けるといわれています。
閻魔堂
参道を挟み、鐘楼堂の向かい側には、閻魔堂がありました。
閻魔堂
本尊は司命・司録の両脇侍を従えています。密教における十二天である閻魔天が、中国道教の冥界思想の影響により、変化したのが閻魔大王です。我が国では浄土教のひろがりとともに地獄・極楽のイメージが民衆に定着しました。閻魔大王は、冥土の裁判官、あるいは地獄界・餓鬼界の王ともいわれ、民衆の間で、身近な仏教のほとけとして、十王信仰や地蔵菩薩などにも結びついていきました。
当山では、毎年二月十六日と八月十六日が閻魔天の縁日とされ、俗に「地獄の釜が開く日」といわれて、大根だき法会と施餓鬼法要が執り行われます。
本堂
いよいよ本堂へ向かいます。
本堂
聖徳太子(しょうとくたいし)が中山寺を創建されてから、堂宇は度々の雷火や兵火で焼失しましたが、その都度、諸国より浄財が集められて、再興されました。現在の本堂は、慶長八年(1603)、豊臣秀頼(とよとみひでより)公が父君秀吉公の冥福と自分の誕生の報恩のため、片桐且元(かたぎりかつもと)を普請奉行として、再建した時のものです。慶長十年に完成した桃山時代の代表的な仏堂建築です。
また中山寺は、観音巡礼の根本地・極楽中心中山寺とも言われています。それは、「徳道上人と閻魔大王の詔」、花山法皇による観音巡礼復興の際の「弁光僧正の観音示現の伝説」、「卜部左近の極楽浄土拝観の故事」といった伝承に基づくもの。特に卜部左近が観音霊場三十三ヶ所のご本尊示現を感得したという旧暦七月九日(新暦では八月九日)は「ここのかび」とも言われ、毎年、星下り大会式法要が執り行われます。この行事は、宝塚市指定の無形文化財になっています。
本尊・十一面観世音菩薩立像
弘仁時代 重要文化財 木造立像
寺伝によれば、勝鬘経の主人公である北インド舎衛国(しゃえいこく)波斯匿(はしのく)王の皇女、シュリマーラー(勝鬘夫人)が、障碍多き女人を済度するために、観音功徳力の発揮を誓い、お釈迦様の教えにしたがって、ご自身の像を刻まれました。このお姿が、御本尊・十一面観世音菩薩立像です。特徴は、エキゾチックな面立ちで、印相は左手を上げ、掌を平たく外に向けた施無畏印(せむいいん)、右手は五指を伸ばして、手を垂れ下した与願印(よがんいん)です。また右足親指が上にそり、御足に力の入った様子が窺われます。これはまさに、大乗の道を歩み、十大誓願を実行せんとの御心を表現されたものです。
両脇侍二体は、後白河法皇がご寄進になったものであり、同じお姿の十一面観音立像三体が並ぶという珍しい形の三尊形式です。三体あわせて、お顔の数が三十三となり、観音さまの三十三変化身や西国三十三ヶ所霊場の数と一致することを表現しています。ふだんは秘仏として祀られていますが、正月三ヶ日と毎月十八日の御縁日には、御厨子の御開帳がなされます。
護摩堂
本堂の右側に護摩堂と開山堂(聖徳太子堂)がありました。
護摩堂
護摩堂の建築様式は、桃山時代の僧堂様式を遺しており、貴重な木造建築として指定文化財に登録されています。護摩堂の本尊は不動明王坐像(平安時代後期の作)で、脇侍としてコンガラ、セイタカの二童子を従えています。また須弥壇の上には、降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)の四大明王を配し、中尊の不動明王とあわせて、五大明王の形式を取っています。
開山堂(聖徳太子堂)
開山堂(聖徳太子堂)
中山寺の開基、聖徳太子(575-622)は、用明天皇の皇子で、積極的に仏教を受容して国家の思想的基盤とすることに努めました。法華・維摩・勝鬘の三経義疏を著し、『十七条憲法』に「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と説かれました。その聖徳太子が御年十六歳の時、仲哀天皇の后 大仲姫および忍熊王の鎮魂供養のために、紫雲たなびくこの地を卜して、中山寺を創建されました。
この御堂は、阪神大震災後、隣接する護摩堂を参考にして、新築されたものです。
五重塔の再建工事
中山寺では五重塔の再建工事が行われていました。
平成28年末完成予定!
安産手水鉢
安産手水鉢(あんざんちょうずばち)
今よりおよそ千四百年前、仲哀天皇の前の皇后大仲姫は、北摂地方の豪族大江氏の出身で、香坂(かごさか)・忍熊(おしくま)の二人の皇子をのこして亡くなり、父君・大江王の住まわれた難波江の近くの大柴谷に葬られました。やがて仲哀天皇は神功皇后を後の后に迎えられました。仲哀天皇が崩御なされた後、神功皇后は胎内の皇子(応神天皇)を立てて、大仲姫の残された二皇子を謀略をめぐらし滅ぼしました。香坂皇子は勝利を祈る「狩り占い」で不慮の死をとげられ、一方、忍熊皇子は神功皇后との戦いに敗れて、その身を湖中に投ぜられました。中山寺境内に残る石棺(舟形石棺)は忍熊王の遺体を収めたものと伝えられ、古墳文化時代の貴重な考古資料です。
中世以降、どんな難産の人もご本尊・十一面観音に祈願をこめて、この手水鉢で身を洗い清めれば安産うたがいなしとの伝承が生まれ、「安産の手水鉢」と称されるようになりました。
阿弥陀堂
五重塔の再建工事が行われている間、大師堂へは迂回路が設けられています。
この為、阿弥陀堂の方へ向かっています。
阿弥陀堂
本尊の阿弥陀如来は、その寿命が無限であることから無量寿如来ともいい、またその光明が無限に十方世界を照らすことから無量光如来とも称され、西方極楽浄土の教主とされます。
中山寺の阿弥陀堂は、先祖供養や納骨回向のための御堂で、永代経供養の御位牌を数多くお祀りしております。毎年二月十五日には涅槃会、九月二十日には永代経特別法要といった法会が執り行われます。
亥の子地蔵(北向き地蔵)
亥の子地蔵(北向き地蔵)
地蔵菩薩は、大地を包蔵するという意味の名前を持つ菩薩です。天空を象徴する虚空蔵菩薩に対して、大地を表す地蔵菩薩は、現世の人々はもとより、地下の冥界にあって苦しみの極まった地獄の中の人々も、救済するほとけとして、広く信仰されてきました。とくに釈迦入滅の後、次代を担う仏とされる弥勒が出生するまで、無仏の時代に現われ、六道に輪廻して苦しむ衆生を救済し、延命をもたらすとされています。向かって左より、宝幢・宝処・宝手・持地・宝印手・延命・堅固・除一切憂冥・不空見・除蓋障です。いずれも地蔵菩薩の徳を顕した名前です。
中山寺の亥の子まいりとは、旧暦十月の亥の日に詣でて、ほうきにて地蔵尊を掃き清めて後に、自身を加持すれば、頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるといわれています。亥の子地蔵尊の縁日は、毎年旧暦十月の亥の日です。
この辺りの見晴らしが良いので、撮ってみました。
雲が厚く垂れこめています。
絵馬堂
絵馬堂
現在の紫雲閣納経所の位置にあった江戸時代の建物を、開創千四百年記念事業の際に移築いたしました。全国各地の信徒から奉納された絵馬を奉安しているために「絵馬堂」と呼ばれています。天上の格子には、金剛界・胎蔵界の両界種字曼荼羅と御本尊・十一面観音の真言をあらわす梵字が、種智院大学助教授 児玉義隆先生の揮毫によって描かれています。
中山寺檀信徒に憩いの場として、開放されています。
万霊塔
中谷寺の万霊塔について
紀元前四世紀頃、釈尊入滅後、その遺体はマッラ族の廟所に祀られ、荼毘にふされた仏舎利(遺骨)は、バラモンのドローナの調停によって、葬儀に参列した八つの国の人々に分けられた。
また葬儀に遅参したモーリヤ族にも遺灰が与えられた。彼らはそれぞれの国に仏舎利を持ち帰り、ストゥーパ(仏塔)を建立した。ドローナ自身も、分舎利に用いた容器を安置するストゥーパを造った。いわゆる釈尊の十塔が出現したのである。
マウリア王朝のアショカ王は八万四千の仏塔を建立したと伝えられ、七世紀半ばにインドを旅行した玄奘三蔵もその旅行記『大唐西域記』に、八十余りのアショカ王塔を記録している。
中部インドのサンチーの伽藍は釈尊の偉業を顕彰するために、アショカ王によって建立された仏教寺院で、紀元前三世紀から紀元二世紀のあいだに建てられた。なかでもサンチー大塔は半円球の墓廟であり、東南アジア・チベット・中国・朝鮮半島といったアジア全域で発展する仏塔の原型となった。
特にサンチー大塔の頂上に建てられた傘の形の傘蓋は、木造建築の中にも取り込まれて、今日、我々が見る三重塔・五重塔・十三塔・多宝塔・宝篋印塔・五輪塔などの起源と考えられている。
中山寺の聖域に建立された万霊塔は、サンチー大塔を約六分の一に縮尺し、原塔の約三分の一の大きさとして復原したものである。
その納める諸霊の遺徳を表し、施主等が供養の福田であるストゥーパ(卒塔婆)となることを祈念するものである。
子授け地蔵
福神社
大願塔
大師堂
大師堂
この御堂の中には、真言宗の宗祖・弘法大師をお祀りしています。
堂内には西国三十三所の観音霊場の御土砂を安置し、御砂踏みの行場となっています。笈摺(おいずる)を身につけ、一踏み三礼しながら、お参りすれば、その功徳は西国三十三所観音巡礼に等しいと伝えられています。
毎月二十一日には月例の御影供法要、六月十五日には宗祖のご誕生を祝う降誕会、青葉まつり法要が執り行われています。
大師堂の前で、五重塔が再建工事中でした
奥之院
この時点で、まだ十時過ぎでした。
奥の院へ行くか、大いに悩んだのです。
往復にかかる時間は約2時間ほど見ていまして、ここまでほぼ予定通りだったんですが、途中トイレがないとなると、やはりお腹が気になりまして・・・。
花山院菩提寺へ移動する電車、バスの時間を見ると、数少ないバスの時間にうまく乗れそうだったので、前倒ししまして、先に向かう事にしました。
休憩
観音茶屋がまだ時間が早くて開いていませんでした。
納経所の一階(地下?)に喫茶「梵天」があり、こちらで喫茶、軽食ができます。
コーヒーを頂いて、スマホの充電をしつつ、電車の時間待ちをしました。
塔頭寺院
帰り道の参道。
後回しにした塔頭寺院です。
山門(裏側)
花山院菩提寺へ
移動時間約1時間で、スイーっと行けます。
三田駅で、ゆっくりトイレに行けました。
中山観音発10:57 → 宝塚着11:03 (阪急宝塚本線急行・宝塚行)
宝塚発11:16 → 三田着11:29 (JR丹波路快速・篠山口行)
三田駅北口(神姫バス)11:43 → 花山院(神姫バス)11:55 (神姫バス・三田駅北口−乙原・乙原バレイ行)
参道
近くに花山院菩提寺への参道がありました。
山門まで900mの坂道を登ります。
花山院 菩提寺(真言宗)
本尊 薬師如来
白雉二年(651)、法道仙人(ほうどうせんにん)による開基と伝えられる。後に人皇六十五代天皇であった花山法皇(かざんほうおう)が西国三十三所観音霊場を再興の後、当山を終焉の地とされる。境内には御廟所があり、西国札所別格霊場として巡礼者の尊崇を受けている。境内からの眺望はすばらしく、「有馬富士 麓の霧は海に似て波かと聞けば 小野の松風」という御詠歌に詠まれている通り、その霧海は幻想的である。なお、法皇を慕い、京から来た女官たちが女人禁制のため、尼となって山裾に住んだことから、この地を「尼寺(にんじ)」という。
琴を弾いて法皇をおなぐさめした坂を「琴弾坂」と呼び、彼女たちの墓は「十二尼妃の墓」として祀られている。
天満神社
参道の途中に天満神社がありました。
琴弾坂の碑
番外札所 東光山 花山院菩提寺(Kazanin-Bodaiji)
ひいひい言いながら歩いていたら、やっと山門が見えてきました。
写真を撮った時間を見ると、参道の入口で12:01、山門で12:24でしたので、25分くらい登ってきたことになります。
山門
山門をくぐったところの石段
石段を登ったところに手水所がありました。
入って正面にお堂が二つ見え、右は花山法皇の廟所、左には納経所の方へ行く道があります。
先ずは花山法皇殿(本堂)の方へ向かおうと思ったのですが、他の参拝客が居られるのに気が付いたので、廟所に回りました。
花山法皇御廟所
薬師堂
他の参拝客が居られなかった薬師堂の方へ向かいました。
七地蔵尊
幸福(しあわせ)の七地蔵
幸福はまず家庭から、そして自分も世の中も幸福になるように
それぞれのお地蔵さまが差し出す救いの御手を両手でしっかりと握って、自分の役割を全うできるように「お力」を頂戴してください
またご家庭でお悩みのある方は、その相手のお地蔵さまの手を握って「仲良くお願いします」とお頼みしてください
各々のお地蔵さまのお守りを事務所でお授けしておりますので、心の糧としてお幸せにお過ごし下さい
賢者地蔵
持ち物 経文
本当に賢くて知恵のある人となれますように。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に勇気と知恵をお与え下さい。
結び地蔵
持ち物 紐
進学 就職 縁談 子宝 など私の望む縁を結ばせて下さい。
人生の目的を果たします。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に希望成就の幸せをお与え下さい。
子供地蔵
持ち物 系図
人として天から頂いたこの生命(いのち)を大切にして幸せいっぱいに生きます。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私の未来に幸せをお与え下さい。
母(妻)地蔵
持ち物 蓮華
泥沼に咲く蓮の花のように華やかな心を持って、母・妻・嫁、それぞれの立場で私らしい人生を歩みます。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に調和と安らぎをお与え下さい。
父(夫)地蔵
持ち物 天球
家庭・社会を担う大きな心を持って、父・夫、それぞれの立場で、迷うことなく私の人生を歩みます。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に自信と安らぎをお与え下さい。
祖母(姑)地蔵
持ち物 箒
こころに塵なく子供夫婦や孫達に知恵を授けられる人として、いつまでも生き甲斐のある人生を歩みます。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に調和と幸せをお与え下さい。
祖父(舅)地蔵
持ち物 軍配
機に応じ、家庭や周囲の人々の為に知恵を授けられる人として、いつまでも生き甲斐のある人生を歩みます。
私にお地蔵さまのお力を与えて下さい。
私に調和と幸せをお与え下さい。
七地蔵さまとしっかりお手を握ってきました!
花山法皇殿(本堂)
本堂の方が空いたので参ります。
荒神堂
寺務所、納経所
こちらでご朱印を頂けます。
ご住職はお話の上手な(お好きな)方のようで、参拝客に長い時間をかけてお話しされてました。
私には「若いが勉強されている風なので、説明はいいかな?」と仰られまして、御法話は無し(笑)
それでも簡単に「なぜ番外札所なのか?」と問われまして、「花山院がお住まいになられた地で、廟所である」とお答えしましたら、満足気なご様子。
菩提寺の名の由来など、お教え頂きました。
公式サイトに載っていましたが、ラジオ番組にもご出演されてますね!
私も詳しくお話をお聞きすれば良かったですわ。
ご朱印
番外
巡禮中興祖 花山院御廟
御本尊薬師瑠璃光如来
ありまふじ ふもとのきりは うみににて なみかときけば おののまつかぜ
開基 法道仙人
建立 白雉二年
兵庫県三田市尼寺
真言宗 東光山 花山院
鐘つき堂
不動堂
展望所
左に有馬富士が見えますね。
花山温泉(はなやまおんせん)へ
山を下り、バス停で二つほど行ったところに、天然温泉の「花山温泉」があるので、こちらでゆっくりするべく向かいます。
途中、花山院の十二妃の墓に立ち寄ってみました。
花山院・十二妃の墓
花山院・十二妃の墓
花山天皇(在位=寛和元年(985)~二年(986))は、藤原氏との政争に敗れ退位した後剃髪し法皇となった。やがて弘法大師が巡ったという西国各地の寺院を巡拝したことが西国観音霊場巡りの始まりと伝えられ、隠棲生活を送った花山院は札所の特別番外とされ、今も参拝者が絶えない。
正式な寺名は東光山菩提寺
山麓の集落尼寺には、都より法皇を追ってこの地に来た弘徽殿の女御と女官たちが、女人禁制の山中に入れず草庵を結び暮らしたと伝える。山中で修業する法皇に聞かせたいと登り口の坂で琴を弾いたことから、参道の坂を琴弾坂と呼ぶ。
中央の五輪塔は弘徽殿女御のもので、周囲の十一基の石塔とあわせて十二妃の墓と呼ぶ。
有馬富士と田園風景を見ながら、温泉に向かいます。
花山乃湯
こちらでゆっくり温泉に浸かり、ビールを飲んでさっぱりしました~。
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