第一番札所 那智山 青岸渡寺
2016年3月10日の記事(改訂版)
3月7日からに8日かけて参拝してきました!
7日は始め曇りでしたが午後から晴れて、8日は一日良い天気でした。
前日の6日は雨で、9日は大雨になった時間もありましたから、晴れ間をバッチリついた感じです。気象情報をきちんと見るのは大事です!!
旅の目的の重要なこととして、旅先の美味しいお酒や美味しい物を食べることにありますね!
今回の宿泊先として、紀伊勝浦駅近くにある温泉旅館で、鮪尽くしのセットになった宿泊プランに乗りました。
但し、チェックインが18時までということで、スケジュールに余裕が無くなりました・・・。
1日目(3月7日)
往路
往路は先の計画通りです。
大阪発9:08 → 和歌山着10:43 (JR紀州路快速 和歌山行)
和歌山発10:45 → 御坊着11:54 (JR紀勢本線 御坊行)
御坊発11:56 → 紀伊田辺着12:39 (JR紀勢本線 紀伊田辺行)
紀伊田辺発13:14発 → 新宮着15:50(JR紀勢本線 新宮行)
紀伊田辺で待ち時間が35分ありますが、良いタイミングでトイレと簡単な食事休憩が取れると考えれば良いと思います。
新宮に着いたら、めちゃお尻が痛くなって、少し歩行困難になるくらい足が鈍ってました。
18時までに旅館にチェックインしようと思ったら、以下の電車一択しかありません。
新宮発17:13 → 紀伊勝浦着17:39
なので、熊野速玉大社へ参拝して駅に戻ってくるのに、残り1時間23分しかないんです。
途中で迷子になったら終わりですし、お尻が痛いのですが、頑張って歩きます。
熊野速玉大社
あんまり時間がないので、一通り参拝して、ご朱印を頂いて帰ります。
熊野速玉大社 鳥居
八咫烏神社
御祭神 建角見命(たけつぬみのみこと)
御由緒 当大社末社として、古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者とも言われて交通安全、招福の御神徳が高い。
鑰宮(かぎのみや)手力男(たぢからお)神社
御祭神 天之手力男命(あめのたぢからおのみこと)
御由緒 延喜式神名帳に紀伊國牟婁郡手力神社とある由緒の古い社で、もと神門内に祀られていたが、嵯峨天皇の弘仁四年(813)に勅命によって現社地近くへ遷り明治四十年に神宮神社へ合祀された。武道、健康、開運の御神徳が高い。
熊野速玉大社参詣曼荼羅
この曼荼羅は、世界遺産登録を記念して作られ、熊野速玉大社を中心に新宮の素晴らしい聖地世界を描いています。多くの人々が心の癒しを求めてこの地に旅し、甦っていった熊野の世界へ皆さんをご案内いたしましょう。
右側には熊野川が勢いよく流れ、黒潮踊る太平洋に注ぎ、上部に権現山、その左端に神倉山、中央から上にかけて熊野権現の象徴である御神木「なぎ」と熊野速玉大社が描かれています。社殿の前には檜扇(国宝)が奉られ、上皇様がお参りされている様子が伺えます。後白河上皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回も熊野にお参りされたといいます。
神倉山は熊野三山の神々が最初に降り立ったという霊山で(熊野権現御垂迹縁起、熊野権現縁起絵巻)、日本の初代の天皇である神武天皇も、天磐盾(あまのいわたて)とされる神倉山に登り、高倉下命(たかくらじのみこと)から聖剣を授かって、八咫烏(やたがらす)の案内で大和に入り、日本の国を治めたとされています(日本書紀)。毎年二月六日には、白装束の男達が御神火をいただいて駈け下りる「お灯祭」という勇壮な火祭りが行われます。
熊野速玉大社は、この神倉山から初めてこの地に神殿を建てて遷し祀られたので「新宮」といい(熊野三略記)、十二柱の神々を祀り、日本で一番大きなご夫婦の御神像(国宝)はじめ、多くの国宝御神宝伝えられています。また、熊野詣の人々は、道中の無事を祈って必ず速玉大社で「なぎの葉のお守」と「熊野牛王神符」(くまのごおうしんぷ)をいただくことを古くからの慣習としています。(頼資卿熊野詣記、諸山縁起)
熊野川は、川の参詣道として世界遺産に登録され、古くは本宮から新宮へは川舟で下りました。熊野川の中ほどにある御船島も速玉大社の境内地で、十月十五、十六日の大祭には、神様を乗せた神幸船が島を漕ぎ巡る「御船祭」が行われます。また、海には不老長寿の霊薬を求めて渡来したという秦の徐福も描かれています。
武蔵坊弁慶
当地の伝承として、弁慶の出自は速玉大社に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされ、源平の戦いに出陣したとなっている。又、その最期においては、源義経の叔父である新宮十郎行家とともに源頼朝から追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられている。尚、弁慶に関係する史跡として、弁慶産家楠跡石碑と旧産屋敷の地(奥野々)に残されている鉄甲塚がある。
熊野神宝館
悠久の時代をこえて語りかける貴重な信仰遺産をぜひご拝観下さい。
開館 午前九時から午後四時まで
拝観料 大人五百円 高校生以下無料
団体割引 三十名以上一割引
御神木 梛(なぎ)
御神木 梛
熊野から世界へ捧げる平和の祈り
熊野は祈りの聖地として憧れの異界であり、「梛」の葉は霊威ある熊野詣でのお守りとして、古から大切にされてきました。
熊野速玉大社の御神木 梛は、樹齢約千年日本一の梛の大樹として、崇められています。
昭和四十七年、沖縄が本土に復帰した年、この神木の苗木が沖縄の地に植樹され、四十年後、各地の農林高等学校で発見されました。立派に根づいているその姿に、沖縄の苦難の歴史が重なり一入感慨深く、当大社宮司のもとに平和を願う心ある人々が集い、平成二十四年六月、「世界平和の祈り」が捧げられました。
平重盛が國安かれとお手植えされた梛の御神木は、千年の時を刻んで平和を象徴する霊木となり、訪れる人々を見守り続けています。
どうか、心静かに手を合わせ、全ての命あるものを慈しみ、世界の平和をお祈り下さい。
手水社
熊野稲荷神社
神門
世界遺産(紀伊の地の霊場と参詣道) 熊野速玉大社
拝殿
熊野恵比寿神社
熊野新宮神社
明治四十年九月二十日新宮町内に祀られていた左記の当大社末社を境内の金毘羅神社に合祀して新宮神社となった。
(例祭)四月三日
熊野御幸
熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後に御出発になる。白河天皇の天永元年(1111)九月の御幸には、総人数八百十四人、一日の食糧十六石二斗八升、傳馬百八十五匹と「中右記」に記している。
御幸の道順は、京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸沿いに南下して田辺、中辺路、本宮、熊野川を下って当大社へ参拝、那智山、雲取、本宮、往還コースを逆行して帰京されるまで、およそ二十数日及ぶ難航苦行の旅であった。
熊野御幸によって、熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京都熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられるなど、各方面に大きな影響を残している。
熊野速玉大社の御由緒
熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこおおかみ))を景行天皇五十八年の御代(128)初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。我々の祖先は、美し国熊野に坐しますこの真新しい新宮に大自然の恵みを献じて神々を斎き祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮」と号するゆえんであります。この尊称はまさに熊野速玉大社が、天地を経典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有することの証といえるでしょう。中世、熊野御幸は百四十度を仰ぎ、第四十六代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。また境内には熊野信仰の象徴たる「梛’なぎ)の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。
二月六日 お灯祭
七月十四日 扇立祭
十月十五日・十六日 例大祭・神馬渡御式・神輿渡御式・御船祭
ご朱印
熊野速玉大社の参拝は以上です。
やはり時間不足は否めず、また熊野神宝館に入れなかったので、また是非とも参拝に訪れなければと思いました。
新宮城址
駅まで戻る途中、新宮城址の前だけちょっと寄り道しました。
新宮城の歴史
新宮城(別名:丹鶴城)は、関ヶ原の合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長(あさのよしなが)の家臣・浅野忠吉(あさのただよし)が新宮領を与えられて、慶長六年(1601)に築城を開始した城である。元和元年(1615)の一国一城令でいったん廃城となるが、同四年、再建を許され、再び築城が始まる。
元和五年(1619)、浅野氏にかわり徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として新宮に水野重仲(みずのしげなか)が入った。重仲は、忠吉の築城工事を継続し、寛永十年(1633)、城は完成をみる。以降、明治の廃藩置県により廃城となるまで、紀州藩新宮領の中枢として機能した。
構造
この城は、独立丘陵上にあり、東の最高所に「本丸」と「天守台」が、その西方に「鍵ノ丸」と「松ノ丸」が配置される。本丸の北には「出丸」があり、熊野川の河口、上流方向が見通せる。
熊野川岸の「水ノ手」には、船着場と一万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷する拠点となっていた。
また、隣接の現在保育所となっている場所は「二ノ丸」としい、領国支配の行政機関があった。登城のための「大手道」は、二ノ丸の北側(市民会館横)に入口があるが、今は建ち並ぶ民家でふさがれ入ることはできない。現在地からこの階段をのぼると、途中で元の大手道につながり、松ノ丸に至る。
本日のお宿へ
17時の5分前頃に駅に着いて、チーズ入りのちくわをあてに、ちょっとハイボールを一杯。
トイレを気にして、ポカリ以外の水分を取っていなかったので、美味しかったです。
徐福公園に行く時間は取れませんでした。
那智勝浦駅
紀伊勝浦駅を降りたところ、漁港があってこの辺りの宿泊の拠点と聞いていたので、観光客で一杯だろうと思っていましたが、案外空いていました。
むしろ温泉や食事を楽しむなら、もっと早い時間に来ても良いので、私の到着が遅かったのかもしれません。
着いて直ぐに露天風呂のある温泉に入って、19時から鮪尽くしの晩ご飯をゆっくり頂いて、美味しいお酒を堪能し、21時半には寝てしまいました。