【西国三十三所巡り】 播磨の二カ寺、丹後の二カ寺を巡る旅。 第二十六番札所 法華山 一乗寺(Ichijyoji)、第二十七番札所 書寫山 圓教寺(Engyoji) 参拝記(1)】


2016年9月15日の記事(改訂版)

青春18きっぷを梅田の金券ショップへ買いに出たんですが、どこも売り切れで手に入らず・・・。
あちこち回って、やっとこっさ1回分だけ残っているきっぷを割高ですが、3000円で手に入れたんです。
しかし、後から経路検索して気が付いたんですが、JR路線でない経路があるので日帰りだと割安になりますが、一泊するとほぼトントンか、赤字に近くなるんです。
後から唖然としまして、遠距離だから得になるという思い込みをしてはいけないということで、いい勉強になりました。
次からは時間を調べるだけでなく、いくら交通費が掛かるのかも気を付けることにしました。

かなりの写真枚数になってしまったので、一日目と二日目に分けた参拝記とします。

目次

一日目

9月8日
台風一過とはならず、残念ながら雨が降ったりやんだりの一日でした。

一乗寺へ

電車内が混むのを避けて、三宮でJRに乗り換えて姫路に向かいます。

園田発7:29 → 神戸三宮着8:04 (阪急神戸本線・新開地行)
三ノ宮発8:10 → 姫路着8:51 (JR神戸線新快速・姫路行)

ここでアクシデント発生!
車内のアナウンスによると、新快速の前を走っていた貨物列車が遅れて、姫路駅到着が10分近く遅れてしまいました。
当然、バスへの乗り換えが出来ず、丁度1時間後に出るバスを待つことになりました。

結果としては、姫路駅周辺の探索が出来たので、バス停などの場所を把握でき、後から迷わずに動けたのは良かったのですが、本数の少ないバスを逃すとエライことに繋がるので、余裕を持った乗り換えにする必要性がありますね。

事前に調べていた、姫路駅(北口)から一乗寺へ向かう社営業所行き(14番)と、圓教寺へ向かう緑台行き(18番)のバス停を調べると、バスロータリーの中の方にあるので、陸橋から行くか、地下道から行くことになります。

姫路駅バスターミナル地図

わたしがアホなんかもしれませんが、初めて行く人にはわかりにくいように感じました。
果たして8:51着の電車で来て、9:00のバスに乗れたかどうか、正直難しかったかもしれません。

社営業所行きは14番です。

姫路駅北口バス停(14番)
姫路駅北口バス停(14番)

地下道から行く道を探索していたらタリーズコーヒーを見つけたので、こちらで時間をつぶせました。
コンセントのある席は取られていたので座れませんでしたが、タリーズwifiがあるので便利でした。

姫路駅(北口)/神姫バス 10:00発 → 法華山一乗寺/神姫バス 10:36着 (神姫バス・姫路駅北口-社営業所(一乗寺経由)・社営業所行)

 


第二十六番札所 法華山 一乗寺(Ichijyoji)

バスに揺られて、ようやく到着です。

法華山一乗寺 バス停
法華山一乗寺 バス停

バスを降りたのは私一人でした。

バスは参道の前に到着しますので、すごい便利です。
到着が予定より1時間遅れていたので、今回は残念ながら必要な箇所だけ回ることにしました。

一乗寺 参道前
一乗寺 参道前
法華山 一乗寺
法華山 一乗寺

法華山 一乗寺

名称 法華山一乗寺
所在地 加西市坂本町
宗派 天台宗
開基 法道仙人 白雉元年(650)
本尊 聖観世音菩薩

一乗寺は西国三十三カ所観音霊場の第二十六番札所として知られる天台宗の名刹である。
数度の火災で中世以前の古文書は残っていないが、中世の地誌である『峰相記』や元亨二年(1322)の『元亨釈書』には白雉元年(650)、法道仙人の開基であると記されている。
数多くの文化財を伝え、建造物では国宝の三重塔、重要文化財の本堂、護法堂、弁天堂、妙見堂や石造五輪塔、県指定文化財の鐘楼、石造宝塔などがある。
一乗寺三重塔(国宝)は、承安元年(1171)の造立で、上層ほど小さくなっていることや、三重の屋根にむくりのあることなど、古塔のおもかげを残す平安末期の塔で、当代における年代の明らかな唯一の塔である。また、この三重塔の古瓦(県指定文化財)には承安四年(1174)八月四日のへら書銘があって、銘のある瓦として、日本でも最古のものである。
美術工芸品では平安後期の聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)をはじめ、白鳳時代の聖観世音菩薩像(重文)など一乗寺の歴史を物語る絵画や彫刻が残されている。
ここは「播磨中部丘陵県立自然公園」の中に位置し、自然と歴史遺産にかこまれた悠久の歴史にふれることができる静謐な空間です。小鳥の囀りに耳を傾けながら、都会の喧騒を離れ、ゆったりとした時間をお過ごしください。

法華山ご詠歌

春は花 夏はたちばな 秋は菊
いつも妙なる 法の華山

法華山 一乗寺
法華山 一乗寺

参道を入ると受付があり、こちらで拝観料をお納めします。

受付
受付

結構きつい石段
結構きつい石段

常光堂(阿弥陀堂)

石段を頑張って登ってゆくと、常光堂が姿を現します。

常光堂(阿弥陀堂)
常光堂(阿弥陀堂)


三重塔(国宝)

国宝三重塔

この塔は1171年(平安末期)に建てられたもので、日本でも10指にはいる古塔です。
山腹に建っているため、長い石段を登りながら下からも上からも、眺めることができ、上の層ほど屋根や軒出が小さくなっている安定した調和美がよく味わえます。
また最上層の屋根が波型となっているのもこの塔の特色であり、蟇股にも平泉の中尊寺金色堂と同様の平安末期建築の特徴がうかがえます。

国宝三重塔
国宝三重塔

法輪堂

法輪堂
法輪堂

三重塔の向かいに法輪堂がありました。


懸崖造の本堂

更に石段を登ってゆくと、懸崖造の本堂が見えてきます。

大悲閣の縁
大悲閣の縁


鐘楼

本堂の入口へ向かう道の右側に、鐘楼がありました。

県指定文化財 一乗寺鐘楼

桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、袴腰(はかまごし)付、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺。
現存の建物は、寛永六年(1629)の本堂再建に続いて建立された。
袴腰のある鐘楼、組物は出三ツ斗(てみつど)、腰組は大都肘木(だいとひじき)を用い、江戸初期頃の特徴を示している。
破風板(はふいた)、懸魚(げぎょ)その他腐朽材の一部を後世補修したが、全体の姿体は比較的よく整っており、木造建築物としての優雅さを誇っている。

鐘楼
鐘楼

護法堂(重要文化財)

護法堂
護法堂

妙見堂、弁天堂(いずれも重要文化財)

向かって右が妙見堂、左が弁天堂


行者堂


金堂(大悲閣、本堂)(重要文化財)

説明書が見当たりませんでした。
本堂の左側に納経所の入口があり、こちらでご朱印が頂けます。


ご朱印

西國第二十六番
播磨國 法華山
御本尊聖観世音菩薩

はるははな なつはたちばな あきはきく いつもたえなる のりのはなやま

開基 法道仙人
建立 大化五年

兵庫県加西市坂本町
天台宗 法華山 一乗寺

本堂側から、三重塔を望みます。


太子堂


石造笠塔婆

帰り際、入り口にあった石造笠塔婆の説明書を見つけました。

県指定文化財 一乗寺石造笠塔婆(とうば)

この塔は、石英粗面岩でつくられ、二重の基壇上に立ち、総高2.9mある。
反花(かえりばな)座をつけた台石上に方柱上の塔身をすえ、正面に正和五年(1316)の刻銘がある。傘は下端に薄く平板状の垂木型をくり出し、頂部に蓮弁を刻んだ請花(うけばな)・宝珠をいただく。
保存は良好で、蓮弁や軒反りの性質などよく時代の特徴を表している。造立年代があきらかなので、この種の石造遺品が少ない県下では注目される存在である。

兵庫県加西市坂本町821−17

姫路駅へ移動して昼食

ここで帳尻を合わせる形で、予定のバスに乗り込み、一旦姫路駅まで戻ります。

法華山一乗寺/神姫バス 11:32発 → 姫路駅(北口)/神姫バス 12:13着 (神姫バス・姫路駅北口-社営業所(一乗寺経由)・姫路駅行)
姫路駅から姫路城の方に向かう商店街の「みゆき通り」にあるお蕎麦屋さんの「北前そば高田屋 姫路みゆき通り店」に入り、親子丼とおそばのセットがあったので、こちらを頂きました。


圓教寺へ

経路検索で調べたところでは、18番バス停から緑台行バスに乗り、途中の書写郵便局前で降り、徒歩8分ほどのロープウェイの駅舎に辿り着くのしか出なかったんです。
ですが、帰りに姫路駅まで直通で来れるバスが運行されている事を知りました。
調べたところ、姫路駅北口の10番バス停から約20分間隔で運行されているので、次からはそちらで行くことにします。

(今回乗ったのはこちら)
姫路駅(北口)/神姫バス  13:10発 → 書写郵便局前/神姫バス 13:29着 (神姫バス・姫路駅北口-緑台(横関経由)・緑台行)

姫路駅北口バス停(18番)
姫路駅北口バス停(18番)

書写郵便局前から徒歩8分で、書写山ロープウェイに到着です。

ロープウェイは、毎時00、15、30、45に出て、山上駅まで4分です。
丁度14:00のロープウェイに乗れました。
ロープウェイのキャラ顔は、昨年の大河ドラマの主役の黒田官兵衛ちゃんでしょうか。


書写山と和泉式部

山上に着くと公園になっていまして、書写山と和泉式部にまつわる物語が書かれていました。

(1)千年、≪西の比叡山≫と呼ばれて

ここ書写山圓教寺は、平安中期西暦966年に、性空上人(しょうくうしょうにん)が開いた天台宗の大寺です。
この時期はまた日本の平安女流文学が見事に花開いた時でもありました。人々は当時の大寺を数えあげて
長谷山(はせのやま) 石山(いしやま) 比叡山(ひえのやま) 書写の山(しょしゃのやま)
と歌いました。
〇〇来千年、当山は≪西の比叡山≫と讃えられて、開祖性空上人の謙虚さを永世の寺風として、法灯を守り、今日に至っております。
上人は敏達(びたつ)天皇の末、橘姓です。


(2)白雲に導かれて 書写山へ

性空上人は、幼い頃から仏心があつく、出家して九州の霧島山で法華経による修業を重ねました。
そして新しい霊地を求めて旅に出ます。行方には毎日白雲が飛んで案内しました。播磨まで来ると、書写山頂に紫色の瑞雲が漂うのを見て、上人は書写山に庵を結びます。遂に≪六根清浄≫(ろっこんしょうじょう)の悟りを開いて、崖の桜の幹に観音像を刻んで毎日礼拝しました。


(3)恩賜の寺号と、和泉式部の名歌がシンボル

性空上人が悟った報せは、直ちに朝廷へととどきます。花山法皇は書写に行幸して、大講堂を寄進し≪圓教寺≫の寺号を賜います。
さらに、上人のすすめで、法皇は万民のために≪西国三十三観音巡礼≫を中興して有り難い恵みを現代に及ぼされます。
いっぽう、和泉式部は、平安女流歌人の第一人者として
冥き(くらき)より 冥きみちにぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
の名歌を、上人に献じます。
恩賜の寺号と、和泉式部の絶唱の名歌は、書写山の象徴(シンボル)であります。


(4)家風は、学問と内親王のお守役

和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。
幼名はお許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。
父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。
和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます。


(5)幼な友達は、ご兄弟の皇子さま

幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます。


(6)三人は成人して、恋が始まる

やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の“大きな恋”が始まります。


(7)和泉が満足できた敦道親王さま

弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は
教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この“歌魂”(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした。


(8)最高の恋 そして恋の終わり

敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。
しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。
その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。
亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里


(9)中宮御所の超一流文芸サロンへ

弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。
中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました。


(10)「和歌は和泉」「小説は紫式部」

小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。
が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。


(11)和泉の名歌に感動した性空上人

中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました。


(12)和泉の存在を永遠化した世阿弥の能

あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな
 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました。


(13)歌舞菩薩になって幸福です

お能「東北」のあらすじ。 --ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)


第二十七番札所 書寫山 圓教寺(Engyoji)

受付があり、拝観料をお納めします。
ここから徒歩で行くか、本堂の摩尼殿の近くまで送迎用のバスで行くかを選択することになります。
わたしは徒歩を選択しました。


慈悲の鐘

こちらの鐘は撞かせて頂く事が可能です。


西国三十三観音道

西国三十三所の観音様が並んでいます。
全部載せると多いのですが、三十三所を巡った気になれるかもしれません。

西国第二十七番 書寫山圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩
西国第二十七番 書寫山圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩
第一番 那智山青岸渡寺 六臂如意輪観世音菩薩
第一番 那智山青岸渡寺 六臂如意輪観世音菩薩
第二番 紀三井寺金剛宝寺 十一面観世音菩薩
第二番 紀三井寺金剛宝寺 十一面観世音菩薩
第三番 風猛山粉河寺 千手千眼観世音菩薩
第三番 風猛山粉河寺 千手千眼観世音菩薩
第四番 槙尾山施福寺 千手千眼観世音菩薩
第四番 槙尾山施福寺 千手千眼観世音菩薩
第五番 紫雲山葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩
第五番 紫雲山葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩
第六番 壺坂山南法華寺 十一面千手観世音菩薩
第六番 壺坂山南法華寺 十一面千手観世音菩薩
第七番 東光山竜蓋寺 二臂如意輪観世音菩薩
第七番 東光山竜蓋寺 二臂如意輪観世音菩薩
第八番 豊山長谷寺 十一面観世音菩薩
第八番 豊山長谷寺 十一面観世音菩薩
第九番 興福寺南円堂 不空羂索観世音菩薩
第九番 興福寺南円堂 不空羂索観世音菩薩
第十番 明星山三室戸寺 千手観世音菩薩
第十番 明星山三室戸寺 千手観世音菩薩
第十一番 深雪山上醍醐寺 准胝観世音菩薩
第十一番 深雪山上醍醐寺 准胝観世音菩薩
第十二番 岩間山正法寺 千手観世音菩薩
第十二番 岩間山正法寺 千手観世音菩薩
第十三番 石光山石山寺 二臂如意輪観世音菩薩
第十三番 石光山石山寺 二臂如意輪観世音菩薩
第十四番 長等山三井寺 如意輪観世音菩薩
第十四番 長等山三井寺 如意輪観世音菩薩
第十五番 新那智山観音寺 十一面観世音菩薩
第十五番 新那智山観音寺 十一面観世音菩薩
第十六番 音羽山清水寺 十一面千手観世音菩薩
第十六番 音羽山清水寺 十一面千手観世音菩薩
第十七番 補陀落山六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩
第十七番 補陀落山六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩
第十八番 紫雲山頂法寺 如意輪観世音菩薩
第十八番 紫雲山頂法寺 如意輪観世音菩薩
第十九番 革堂行願寺 千手観世音菩薩
第十九番 革堂行願寺 千手観世音菩薩
書寫山展望案内
書寫山展望案内
書寫山からの展望
書寫山からの展望
第二十番 西山善峯寺 千手千眼観世音菩薩
第二十番 西山善峯寺 千手千眼観世音菩薩
第二十一番 菩提山穴太寺 聖観世音菩薩
第二十一番 菩提山穴太寺 聖観世音菩薩
第二十二番 補陀落山総持寺 千手観世音菩薩
第二十二番 補陀落山総持寺 千手観世音菩薩
第二十三番 応頂山勝尾寺 十一面千手観世音菩薩
第二十三番 応頂山勝尾寺 十一面千手観世音菩薩
第二十四番 紫雲山中山寺 十一面観世音菩薩
第二十四番 紫雲山中山寺 十一面観世音菩薩
第二十五番 御嶽山清水寺 十一面千手観世音菩薩
第二十五番 御嶽山清水寺 十一面千手観世音菩薩
第二十六番 法華山一乗寺 聖観世音菩薩
第二十六番 法華山一乗寺 聖観世音菩薩

 

第二十八番 成相山成相寺 聖観世音菩薩
第二十八番 成相山成相寺 聖観世音菩薩
第二十九番 青葉山松尾寺 馬頭観世音菩薩
第二十九番 青葉山松尾寺 馬頭観世音菩薩
第三十番 竹生島宝厳寺 千手千眼観世音菩薩
第三十番 竹生島宝厳寺 千手千眼観世音菩薩
第三十一番 姨綺耶山長命寺 千手観世音菩薩
第三十一番 姨綺耶山長命寺 千手観世音菩薩
第三十二番 繖山観音正寺 千手千眼観世音菩薩
第三十二番 繖山観音正寺 千手千眼観世音菩薩
第三十三番 谷汲山華厳寺 十一面観世音菩薩
第三十三番 谷汲山華厳寺 十一面観世音菩薩

仁王門

西国三十三観音道を抜けると、仁王門が見えてきます。

仁王門

圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
門は、両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている。

仁王門
仁王門
仁王門
仁王門
仁王門
仁王門

壽量院

壽量院

圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である。

壽量院
壽量院

五重塔跡

五重塔跡

「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか。


圓教寺会館(金輪院跡)


十妙院

十妙院

天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である。


護法石(別名/弁慶のお手玉石)

護法石(別名/弁慶のお手玉石)

昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている。

護法石(別名/弁慶のお手玉石)
護法石(別名/弁慶のお手玉石)

湯屋橋

湯屋橋

湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬したとある。

湯屋橋
湯屋橋

はづき茶屋

湯屋橋を渡ったところのすぐ右にあります。
各種土産物が置いてあり、食事を取ったり休憩が出来ます。

また帰りに寄りました。

はづき茶屋
はづき茶屋

三十三所堂

はづき茶屋の向かいに三十三所堂があります。

三十三所堂

西国三十三観音をまつる堂である。
西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。
社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる。

三十三所堂
三十三所堂

摩尼殿(如意輪堂)

いよいよ摩尼殿へ向かいます。

石段結構つらいです
石段結構つらいです

懸崖造が素晴らしいです
懸崖造が素晴らしいです

摩尼殿(如意輪堂)

書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている。

摩尼殿(如意輪堂)
摩尼殿(如意輪堂)
摩尼殿(如意輪堂)
摩尼殿(如意輪堂)

ご朱印

圓教寺 ご朱印
圓教寺 ご朱印
圓教寺 ご朱印
圓教寺 ご朱印

西國第二十七番
播磨國 書寫山
御本尊六臂如意輪観世音菩薩

はるばると のぼればしょしゃの やまおろし まつのひびきも みのりなるらん

開基 性空上人
建立 康保三年

兵庫県姫路市書寫
天台宗 書寫山 圓教寺


三之堂へ

摩尼殿の右側から、大講堂へ抜ける道があります。
いきなり、えっと思うような山道です。


姫路城主・本多家の墓所

姫路城主・本多家の墓所

5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。忠刻の墓のうしろには、殉死した宮本三木之助と岩原牛之助、三木之助に殉死した宮田角兵衛の墓が並んでいます。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています。

姫路城主・本多家の墓所
姫路城主・本多家の墓所

寶蔵跡

寶蔵跡

明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した。


大講堂(重要文化財)

せっかくの説明書がぼろぼろで読めないです・・・。
大講堂、食堂、常行堂はコの字の配置になっていますね。

大講堂
大講堂
大講堂
大講堂
大講堂
大講堂

食堂(重要文化財)

これも読めない・・・。

食堂
食堂
食堂
食堂
食堂
食堂

常行堂(重要文化財)

 

常行堂
常行堂

奥之院へ

大講堂と食堂の間から、奥の院へ抜ける道があります。


灌頂水

灌頂水
灌頂水

弁慶鏡井戸

弁慶鏡井戸

書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている。


不動堂

不動堂
不動堂

護法堂拝殿(弁慶の学問所) (重要文化財)

護法堂拝殿(弁慶の学問所)

奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。
今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)

護法堂拝殿(弁慶の学問所)
護法堂拝殿(弁慶の学問所)


護法堂(乙天社と若天社)

護法堂(乙天社と若天社)

性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社。

乙天社
乙天社
若天社
若天社

開山堂(奥の院) (重要文化財)

開山堂(奥の院)

圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。

開山堂(奥の院)
開山堂(奥の院)

金剛堂(重要文化財)

金剛堂

三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩埵にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。
本尊の金剛薩埵像は、現在、食堂に安置されている。

金剛堂
金剛堂

展望公園


薬師堂

薬師堂

根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。

薬師堂
薬師堂

姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所

姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所

松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。
しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました。

姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所

鐘楼(重要文化財)

鐘楼

袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。
寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。
鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。
銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。

鐘楼
鐘楼

十地院

十地院

もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。
庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である。

十地院
十地院

法華堂

法華堂

法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。
もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。

法華堂
法華堂

姫路城主・榊原家の墓所

姫路城主・榊原家の墓所

榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。
前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741)
ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。

姫路城主・榊原家の墓所
姫路城主・榊原家の墓所

常行堂(重要文化財)

奥之院から戻ってきた格好です。

常行堂

常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行)をするための道場である。建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂、北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなっている。
舞台は大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものと思われる。

常行堂
常行堂

大黒堂

大黒堂
大黒堂

瑞光院

瑞光院

創建年代等は不明だが、現存する圓教寺塔頭六院の一つであり、信者の組織である網干観音講の宿院でもある。摩尼殿のある中谷から三つの堂のある西谷に向かう途次にあり紅葉の名所として知られ、向かいに大黒堂と歌人初井しずゑの歌碑がある。

瑞光院
瑞光院

妙光院

妙光院

安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した。

妙光院
妙光院

はづき茶屋で休憩

小腹が空いたので、きつねうどんを頂きました。

兵庫県姫路市書写2968

宿泊先の天橋立へ

参拝を終えて、再びロープウェイで麓に降りますと、ロープウェイ駅から姫路駅北口行きのバスが出ていることに気が付きました。

書写山ロープウェイ/神姫バス 16:34発 → 姫路駅(北口)/神姫バス 17:02着

姫路発17:28 → 寺前着18:12 (JR播但線・寺前行)

寺前発18:13 → 和田山着19:03 (JR播但線・和田山行)

和田山発19:13 → 豊岡着19:46 (JR山陰本線・豊岡行)

豊岡発19:58 → 天橋立21:08 (京都丹後鉄道宮豊線・西舞鶴行)
京都丹後鉄道は、青春18きっぷが使えませんので、ご注意です!

今回は素泊まりで良かったので、「オーベルジュ天橋立」に宿を取りました。
隣に「天橋立ホテル」があり、露天風呂のある天然温泉大浴場が使えるんです。
夜は23時まで、朝は6時から入れます。

 

続編に続きます!


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