【西国三十三所巡り】 第十二番札所 岩間山 正法寺 (岩間寺)(Iwamadera)、第十三番札所 石光山 石山寺(Ishiyamadera) 参拝記

第十二番札所 岩間山 正法寺 (岩間寺)

2016年5月25日の記事(改訂版)

5月21日
朝から良い天気で、お出かけ日和でありましたが、寝坊してしまいました。

実は前日に奥様と園田の行きつけのBARキャンファーウッドで飲んで、二日酔いでしてね(笑)
それでも予定より2時間ほど遅れて出立しました。

移動経路はそれなりに調べたつもりでしたが、 やはり時間帯が違うと、電車もバスも思っていたのが来ません。

バスは瀬田川沿いに行くバスにしか乗れなかったので、歩く距離が延びてしまいました。
しかもちょっと道に迷ったし・・・。

往路

園田発8:56 → 梅田(阪急線)着9:06 (阪急神戸本線・梅田行)
大阪発9:30 → 石山着10:13 (JR京都線新快速・近江塩津行)
石山駅/京阪バス発10:24 → 赤川/京阪バス着10:36 (京阪バス・4号(大石小−石山)・大石小学校行)

 赤川のバス停は瀬田川に近く、中千町のバス停よりもだいぶ東になりますね。
滋賀県大津市南郷1丁目8

そこから徒歩で岩間寺に向かい、着いたのは11:40位でしたので、1時間ほど山道を登ったことになります。

石山駅
石山駅
ちはやふるのラッピング電車
ちはやふるのラッピング電車
京滋バイパスの上を越える箇所あります
京滋バイパスの上を越える箇所あります

見えづらいですが、右端の方に瀬田川があって、その辺りから歩いてきてます・・・。

途中、右へ行くと奥宮神社へ行く分岐道がありますが、先に岩間寺へ行くので左に行きます。

奥宮神社
奥宮神社
奥宮神社参道
奥宮神社参道

道中、車が割と速度を出して降りてきたり、後ろから来た車にすぐ脇を抜かれて怖い思いをする事もありました。
結構長い距離を歩きましたが、歩いている方とすれ違ったのは、おじいさんがお一人だけでした。
そもそも公共交通機関がありませんし、岩間寺へは車で来られる方がほとんどのようです。

麓から山道に入ると民家もなく、長い山道を登り降りすることになりますので、 若い女性だけで来たら危ないのではないかと思われました。


第十二番札所 岩間山 正法寺 (岩間寺)(Iwamadera)

ようやく入口に辿り着いて、ほっとしました。
汗びっしょりです・・・。

参道に色々あって、見てるだけでも面白いと思います。

岩間山 正法寺 参道
岩間山 正法寺 参道
西国十二番岩間山
西国十二番岩間山
灯篭
灯篭
仏足石
仏足石
聖観音
聖観音
ぼけ封じ三十三観音第四番札所
ぼけ封じ三十三観音第四番札所
鐘楼
鐘楼

岩間山正法寺(通称岩間寺)沿革

岩間山正法寺(通称岩間寺)沿革
岩間山正法寺(通称岩間寺)沿革

岩間山正法寺(通称岩間寺)沿革
宗派  真言宗
本尊  秘仏千手観世音菩薩立像
ご詠歌 みなかみは いづくなるらん いわまでら
きしうつなみは まつかぜのおと
創建は、養老六年(722)越前の生まれの泰澄大師(たいちょうだいし)が、時の女帝元正天皇(げんしょうてんのう)(第四十四代)の三十三歳の厄年の際のご病気を自らの法力により治されたほうびに勅命により建立したことにはじまる。西国三十三所観音霊場第十二番、ぼけ封じ十楽観音霊場第四番である。
御本尊は、泰澄大師が当地の桂の木より千手陀羅尼を感得し、自らその木で千手観音を刻み、胎内佛として元正天皇より賜った千手観音をこめたという。現在の御本尊は、その元正天皇の御念持佛、千手観音立像で、御丈四寸八分、(約十五センチメートル)、三国伝来のエンブダゴン(印度エンブ川より採れる砂金)の金銅佛で通称 〝汗かき観音〟〝雷除観音〟 〝厄除観音〟とよばれている。
寺伝によれば、汗かき観音とは、御本尊は日没と共にお厨子を抜け出され、毎夜一三六地獄をかけめぐり、苦しむ衆正を済度し、明け方お帰りになられた時には汗びっしょりになられていることに由来する。
また、大師が七堂伽藍建立の際、度々雷が落ち、堂宇をことごとく焼失した。困り果てた大師は、自らの法力で雷を捕らえ、佛弟子にしたところ、雷は大師に二つの約束をした。すなわち、当山へお参りする善男善女には雷の難を及ぼさないこと、岩間寺に千年万古つきることのない水を湧かせることの二つである。これが、〝雷除観音〟と呼ばれる由来で、毎年春に行なわれる雷神祭には多くの参詣者で賑わう。
境内には、雷自らの爪で掘ったという〝雷神爪堀の霊泉〟があり、現在も絶えることなく豊かな水をたたえており、その霊泉には元正天皇御製の
湧き出づる 岩間の水は いつまでも
つきせぬ法の み佛のかげ
が伝えられている。
往昔は、後白河(ごしらかわ)帝、後宇多(ごうだ)帝、正親町(おおぎまち)帝等歴代天皇の尊崇篤く、日本三霊場の一つとして隆盛していた。

西国観音霊場第十二番 岩間山正法寺全景
西国観音霊場第十二番 岩間山正法寺全景
白姫龍神
白姫龍神
白姫(白山比咩)龍神
白姫(白山比咩)龍神
白姫(白山比咩)龍神

開山泰澄大師が加賀の白山で修業中白馬に乗った美女に会って尋ねられると「余は白山妙理大権現である。」と言われありがたく感じた。大師は当岩間山に白姫龍を勧請された。女人がこの神を崇めると美女になると伝承されている。

雷神霊泉
雷神霊泉

雷神霊泉

元正天皇御製
湧き出づる 岩間の水は いつまでも
つきせぬ法の み佛のかげ

雷神霊泉
雷神霊泉

岩間寺 仁王像

参道の左右に仁王像があって寺の入り口を守護していますが、山門はありません。

仁王像
仁王像
仁王像
仁王像
休憩所(客殿)
休憩所(客殿)

こちらで少し休憩させて頂きました。

休憩所(客殿)
休憩所(客殿)

大師堂

大師堂
大師堂

大師堂

○当山開山泰澄大師
白鳳十一年(682)六月十一日、越前麻生津に生まれる、俗姓は三上氏、父は安角、母は伴野氏。
幼少の時より神童的で、常に十一面観音を念じ、僧侶となってからは荒修業を積み、その名声は早くより中央にも知られていた。
大宝二年(702)には鎮護国家法師に勅任されており、養老六年(722)には元正天皇の病気平癒のため、奈良の都に来たと伝えられている。同年、加賀白山を開く途上、元正天皇の勅命により、弟子神部浄定と少沙弥(寝行者)を従え、当山を開く。神融禅師号を賜る。別名〝越の大徳〟 〝金鎮大師〟。
神護景雲元年(767)三月十八日、八十六歳で示寂。

○宗祖弘法大師
真言宗の開祖。宝亀五年(774)~承和二年(835)

大師堂
大師堂
大師堂
大師堂
稲妻龍王社
稲妻龍王社

稲妻龍王社

稲妻龍王は当山護法善神でこの銀杏の大樹に住む。よく水を司り雷難火難を除き大魔から護り給う。

稲妻龍王社
稲妻龍王社

不動堂

不動堂
不動堂

不動堂

不動堂は、寛政・文化・昭和年間に再建を繰り返しているが、虫害ひどく、元不動堂は平成五年に再建。
○不動明王・二童子(制吒迦(せいたか)・矜羯羅(こんがら))像
(平安中期・重文)
不動明王は、大日如来の使者、または大日如来が教化し難い衆生を救うために恐ろしい姿をとる〝教令輪身〟であり、二大童子は、不動明王の使者八大童子の一つで、矜羯羅童子は慈悲の化現で小心随順する意、制吒迦童子は矜羯羅童子と共に不動明王の化身で方便心行を司る。

○薬師如来坐像(藤原期・市重文)
○阿弥陀如来坐像(藤原期)

不動堂
不動堂

観音堂

観音堂
観音堂

手前に見える池は芭蕉の名句で知られます。
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

芭蕉句碑
芭蕉句碑

本堂

岩間寺本堂
岩間寺本堂

岩間寺本堂
天正五年(1577)、醍醐理性院の尭助僧正により、千手堂として再建され、その後、寛永年間(江戸中期)に解体修理がなされている。
本尊元正天皇御念持佛千手観世音菩薩(像高四寸八分・金銅佛)は秘仏で、三重の厨子の中に安置されている。脇侍に泰澄大師御作と伝わる等身の吉祥天・婆蘇仙人(千手観音の眷属の二十八部衆の一)をしたがえる「汗かき観音」「雷除観音」「厄除観音」として名高い。

本堂
本堂
本堂
本堂

ご朱印

岩間寺ご朱印
岩間寺ご朱印
岩間寺ご朱印
岩間寺ご朱印

西國第十二番
近江國 岩間寺
御本尊千手観世音菩薩

みなかみは いずくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと

開基 泰澄大師
建立 養老六年

滋賀県大津市石山内畑町
真言宗 岩間山 正法寺

 


境内を北へ

西国霊場お砂踏み所

西国霊場お砂踏み所
西国霊場お砂踏み所
西国霊場お砂踏み所
西国霊場お砂踏み所

ご霊木

ご霊木の由来
ご霊木の由来

ご霊木の由来

養老六年(722)泰澄大師が元正天皇の勅を奉じて霊地を求め この地に行脚された時 傍らの桂の大樹内より千手陀羅尼経が聞こえた。 そこで その霊木を以って千手観世音 吉祥天 婆蘇仙の三尊を刻まれ その胎内に天皇の御念持物を納め本尊と為し当山を開創されたと伝えられる。
現存するこの桂は その子孫に当る。

ご霊木
ご霊木

護法龍王拝殿

護法龍王拝殿
護法龍王拝殿

護法龍王拝殿
九頭龍龍王
白龍龍王
七面弁財天
各々、当山の(岩間山)山中に鎮座されている護法善神であり長寿のご利益を頂けます。

護法龍王拝殿
護法龍王拝殿

八大龍王堂

八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂
八大龍王堂

清瀧社

清瀧社
清瀧社
滋賀県大津市石山内畑町82

 


奥宮神社

岩間寺から北へ抜けて、しばらく歩くと奥宮神社があります。
琵琶湖向きの展望台があり、景色は最高です!

奥宮神社
奥宮神社
瀬田方面遠望
瀬田方面遠望
奥宮神社
奥宮神社
 昭和四十六年五月五日創祀の記載あり
昭和四十六年五月五日創祀の記載あり
笠丸稲荷社
笠丸稲荷社
笠丸稲荷社
笠丸稲荷社
奥宮神社社殿
奥宮神社社殿
奥宮神社舞台
奥宮神社舞台
祖霊社
祖霊社
愛宕社
愛宕社
福富稲荷大神
福富稲荷大神
授与所
授与所

宮司さんはご不在の様子で、人気も無いので、石山寺へ向かう事にしました。

北側の石段を降りると、駐車場があり、 登ってきた道の途中にあった分岐の終点がここであることがわかります。
十数台の車が駐車しており、只者でなさそうな方々が集合して居られましたので、そそくさと抜け出ました・・・。

奥宮神社への石段
奥宮神社への石段

分岐の箇所までは、結構むちゃな九十九折の道になっており、道も悪いので膝を痛めるかと思いました。麓まで下山してきまして、中千町のバス停が見えてきました。

時間を見ると13:22。
バスが13:26にあるやないですか!!
ほんとに偶然でしたが、石山寺までバスに乗ってワープすることにしました。

中千町バス停
中千町バス停

第十三番札所 石光山 石山寺 (Ishiyamadera)

バスに乗ったら、10分足らずで石山寺に着いてしまいました。

石山寺山門前バス停
石山寺山門前バス停
石山寺
石山寺
石山寺境内図
石山寺境内図

石山寺に入る前に、腹ごしらえをします。
山門の向かいにあるお店で、定番の親子丼と、しじみ汁を頂きました。
ちょっと高かったです・・・。

れすとらん 水月
れすとらん 水月
親子丼としじみ汁
親子丼としじみ汁

東大門(重要文化財)

東大門
東大門
東大門
東大門
仁王像
仁王像
仁王像
仁王像
東大門
東大門

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

東大門

現在の東大門がいつ建立されたのかは明らかではありませんが、淀殿の寄進による慶長の大修理の際に、再建に近い大修理が行われたと考えられています。「石山寺縁起絵巻」第五巻は鎌倉末から室町初期の頃に制作されましたが、その第一段目に描かれた東大門は、門の内側に鮮やかな彩色の多聞天像が確認できます。
東大門の歴史を探る上で、この場面は貴重な資料の一つと言えるでしょう。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第五巻第一段)

大本山 石山寺
大本山 石山寺

大本山 石山寺
聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願により天平勝宝元年良辨僧正(りょうべんそうじょう)によって開基され、暦朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。西国巡礼十三番の札所。
本堂は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。
本尊観音は勅封になっている。
堂内源氏の間は紫式部(むらさきしきぶ)が源氏物語を書いたところと傳え、本堂下の御堂は蓮如上人(れんにょしょうにん)の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と傳える蓮如鹿の子の小袖を安置している。
多宝塔は美しい金斉美をもった鎌倉期の建築であり、鐘楼、大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。
境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で硅灰石からなり、天然記念物に指定されている。


参道

石山寺 参道
石山寺 参道

宝性院

宝性院
宝性院
宝性院
宝性院

法輪院

法輪院
法輪院
法輪院
法輪院

拾翠園

拾翠園
拾翠園
拾翠園
拾翠園
拾翠園
拾翠園

淳浄館
こちらで「54歩で読む源氏物語」の催しが行われていて、面白くて54帖を全部読んでいたら貴重な時間を取られてしまいました・・・。

淳浄館
淳浄館
淳浄館
淳浄館
淳浄館
淳浄館
淳浄館の前庭
淳浄館の前庭

公風園 白耳亭

公風園 白耳亭
公風園 白耳亭
公風園 白耳亭
公風園 白耳亭

大黒堂
こちら出口だったので、入りませんでした。

大黒堂
大黒堂
大黒堂
大黒堂

世尊院

世尊院
世尊院
世尊院
世尊院

世尊院を過ぎると、入山料をお納めする関所があります。

「セット券(入山料 + 本尊 如意輪観世音菩薩 特別拝観料 +「石山寺と紫式部」展 入場料)」
1200円
チケットを購入したら、誠に迂闊ながら淳浄館でかなりの時間を費やしてしまっていて、 既に15:10を過ぎていることに気が付きました。

受付のおばちゃんが、
「先に石山寺と紫式部展を観に行ってから本堂に行きや!」
と、教えてくれました。

「石山寺と紫式部」展を行なっているのは、 境内の一番上にある「豊浄殿」にあり、受付が15:45まで。
「本尊 如意輪観世音菩薩 特別拝観」を行なっている本堂は、 ここから石段を登って近くにはありますが、受付が16:00まで。

そもそも、石山寺は16:30が閉門時間だったのですよ!
迂闊でした、急がないとご朱印を頂く事もできません!!

 


豊浄館、「石山寺と紫式部」展

ひいひい言いながら石段を登って、境内の一番上の豊浄館へ向かいます。

石山寺と紫式部展

館内は撮影禁止でした。
石山寺が保有している源氏物語の資料は非常に興味深かったです。公式サイトに詳しく説明が載っていますので、ご参考下さい。


本堂(国宝)

石山寺本堂 一棟
石山寺本堂 一棟

石山寺本堂 一棟
石山寺本堂は、桁行七間、梁間四間、寄棟造の本堂と桁行九間、梁間四間、寄棟造で懸造(舞台造)の礼堂と、その両棟を結ぶ相の間によって構成される総檜皮葺の建物です。
石山寺の建立は古く、本堂は天平宝字五~六年(761~2)にかけて造東大寺司によって拡張されたことが正倉院文書に見えます。その後、承暦二年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが、現在の本堂で、天平宝字頃のものとほぼ同じ規模を持つ滋賀県で最も古い建物です。礼堂と相の間は、慶長七年(1602)に淀君によって建て替えられました。
昭和二十七年(1952)に国宝に指定されました。

石山寺本堂
石山寺本堂
石山寺本堂
石山寺本堂
本堂並に紫式部源氏の間(国宝)
本堂並に紫式部源氏の間(国宝)
本堂並に紫式部源氏の間(国宝)

勅封如意輪観世音菩薩(元国宝)及国宝諸佛を奉安す
天平時代聖武天皇勅願良弁僧正の開基内陣は平安時代外陣舞台は桃山時代(十八間四面県下最古の建築)
当山は国宝及び重文数拾点以上を寺有する天下無双の文化の殿堂を誇る千古の霊場である

本堂東面と硅灰石
本堂東面と硅灰石

本堂東面と硅灰石

承暦二年(1078)、本堂は火災に遭い、その二十年後の永長元年(1096)に再建されました。室町時代に制作された「石山寺縁起絵巻」第四巻の藤原道長の参籠の場面に描かれる本堂は、再建後の本堂の姿といえるでしょう。
この場所から現在の本堂と絵を比べてみると、慶長の大修理の際に改装された源氏の間以外は、本堂はもとより、硅灰石や石段までが忠実に描かれていることがわかります。
なお、僧形の藤原道長(ふじわらのみちなが)が籠る画面中央の部屋は、紫式部が参籠した部屋でもあります。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第四巻第二段)

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

源氏の間

紫式部参籠の場面。紫式部が籠ったというこの部屋は、「石山寺縁起絵巻」の他の場面や他の文献から推察すると、天皇や皇族、貴族、高僧など身分の高い人々が使用する部屋であったようです。皇后の女房である式部は特別待遇にあったわけですが、新しい物語の制作がいかに重要な任務であったかが伺えます。
なお、正中年間(1324~1326)に成立した詞書によると、この部屋は鎌倉時代にはすでに「源氏の間」と呼ばれていたようです。「石山寺縁起絵巻」は「源氏の間」に関する最も古い資料でもあるのです。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第四巻第一段)

御所人形 紫式部
御所人形 紫式部
御所人形 紫式部
御所人形 紫式部
本堂入口
本堂入口
本堂入口
本堂入口

ご朱印

石山寺ご朱印
石山寺ご朱印
石山寺ご朱印
石山寺ご朱印

西國第十三番
近江國 石山寺
御本尊二臂如意輪観世音菩薩

のちのよを ねがうこころは かろくとも ほとけのちかい おもきいしやま

開基 良弁僧正
建立 天平勝宝元年

滋賀県大津市石山町
真言宗 石光山 石山寺


三十八所権現社本殿(重要文化財)

石山寺三十八所権現社本殿
石山寺三十八所権現社本殿

重要文化財 建築物

石山寺三十八所権現社本殿
本殿は、一間社、流造、屋根は檜皮葺です。
石山寺は桃山時代に大規模な伽藍整備がなされており、本殿の建立は本堂の礼堂と同じく慶長七年(1602)になります。
三方で刎高欄付の榑縁を廻らし、正面には木階七級と浜床を張ります。部材の保存状態は良好で、内陣内部を素木とし、外陣と外部は極彩色で彩られていたことがわかります。
三十八所権現社は、石山寺の鎮守として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として建立されたものです。
蓮如堂と合わせて、寺院における鎮守社本殿及び拝殿の構成や礼拝形態を伝える貴重な遺構として、平成二十年(2008)十二月、国の重要文化財に指定されました。

石山寺三十八所権現社本殿
石山寺三十八所権現社本殿
石山寺三十八所権現社本殿
石山寺三十八所権現社本殿

蓮如堂(重要文化財)

石山寺 蓮如堂
石山寺 蓮如堂

重要文化財

石山寺 蓮如堂 一棟

慶長七年(1602)

懸造、桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、妻入、桟瓦葺

蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内復興の際に、三十八所権現社本殿(県指定)の拝殿として建築された建物です。
明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。
建物は、寺蔵文書や東妻破風板の墨書などから慶長七年の建築で、その後、文化八年(1811)に桟瓦葺に改造されています。
懸造で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。

蓮如堂
蓮如堂

観音堂

観音堂
観音堂
観音堂
観音堂

毘沙門堂

滋賀県指定有形文化財

石山寺 毘沙門堂 一棟

正面三間、側面二間、一重、宝形造、桟瓦葺、背面閼伽棚を含む

毘沙門堂は、堂内に兜跋毘沙門天(重要文化財)・吉祥天・前膩師童子の三体を祀っています。
この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。
毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口三間に対して、奥行き二間とし、方三間にはしない点や須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通し肘木を虹梁型に加工しその紂王に笈型付きの大瓶束を載せ天井を受ける特殊な架構・意匠を用いるなど特色にあふれた優れた建築です。

毘沙門堂
毘沙門堂
毘沙門堂
毘沙門堂
毘沙門天
毘沙門天

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

毘沙門天

源頼朝(みなもとのよりとも)の側近であった中原親能(なかはらのちかよし)は、和束で起こった反乱の討伐に向かうにあたって石山寺に詣で、観音さまに勝利を祈願しました。石山寺の門を出発した時、親能の前に毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができたと「石山寺縁起絵巻」は伝えています。
武神であり、財宝神である毘沙門天は観音さまの三十三応現身(観音さまが人々を救済するために時と場所と相手に応じて変身した三十三の姿)のひとりでもあります。この毘沙門堂に安置されるのは、兜跋毘沙門天立像(重文、平安時代後期)です。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第六巻第一段)


御影堂(重要文化財)

石山寺御影堂
石山寺御影堂

重要文化財 建築物

石山寺 御影堂

本堂の東、鐘楼の下にあるこの御影堂は、室町時代の建立で、正面三間、側面三間、宝形造、檜皮葺で、背面に一間の張出しを設けます。堂内は中央間後方一間を板壁で囲って内陣とし、内部の須弥壇には、弘法大師・良弁・淳祐の遺影(御影)を安置しています。
建立当初は、中央一間に須弥壇を置く形式でしたが、慶長期に堂全体の修理が行われ、江戸中期に虹梁を加え、後方を内陣とする改造がなされました。柱は全て円柱とし、外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、半蔀を吊って、障子をたてます。
室町時代の軸部を残し、慶長期の精錬された外観をもつ建築として、平成二十年(2008)十二月、国の重要文化財に指定されました。

御影堂
御影堂
御影堂
御影堂

鐘楼(重要文化財)

石山寺鐘楼
石山寺鐘楼

重要文化財 建築物

石山寺 鐘楼 一棟

この鐘楼は桁行三間、梁間二間、重層で袴腰を付け、屋根は入母屋造、檜皮葺となっています。昭和二十八年(1953)からの解体修理によってかなり復元され、袴腰は白漆喰壁に、棟は短くなって全体につりあいのとれた美しい姿となりました。
縁下と上層の軒下には三手先木組をもっていますが、とくに斜めにでる尾垂木のないのは、珍しい特徴です。
源頼朝(みなもとのよりとも)の寄進と伝えられていますが、様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられています。
明治四十年(1907)八月に重要文化財に指定されました。

鐘楼
鐘楼

芭蕉句碑
「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」

芭蕉句碑
芭蕉句碑
芭蕉句碑
芭蕉句碑

紫式部供養塔

紫式部供養塔
紫式部供養塔
紫式部供養塔
紫式部供養塔

経蔵(重要文化財)

石山寺経蔵
石山寺経蔵

重要文化財

石山寺 経蔵 一棟
室町時代
桁行三間、梁間二間、高床校倉、一重、切妻造、桟瓦葺

経蔵は、高床の校倉でかつては国宝の淳祐内供筆聖教等を収蔵した建物です。
建物は、頭貫木鼻の意匠や桁や垂木に反り増しがあることなどから、桃山時代の十六世紀後期頃の建立と考えられます。
八角の束柱上を頭貫で繋ぎ、その上に台輪が乗り、校木は桁行・梁間方向とも同じ高さに十段組んでいます。台輪は木鼻の部分で矧ぎ木をして一木のように見せています。
県下における数少ない校倉造の遺構の一つで、また、全国的にも類例の少ない切妻造の校倉として、さらに、石山寺にとって重要な経典類が良好な状態で長く収納されてきた建築としても貴重です。

経蔵
経蔵
腰掛石
腰掛石

腰掛石
昔からこの岩に座ると安産すると言い伝えられています。

安産の腰掛石
安産の腰掛石

多宝塔(国宝)

石山寺多宝塔
石山寺多宝塔

国宝 建造物

石山寺 多宝塔 一棟

多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造りの屋根をのせた二重の塔です。石山寺多宝塔は建久五年(1194)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく精錬され、均斉のよくとれた建築です。
また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれています。
昭和二十六年(1951)に国宝に指定されました。

多宝塔
多宝塔
多宝塔
多宝塔
多宝塔本尊大日如来坐像
多宝塔本尊大日如来坐像

重要文化財 彫刻

多宝塔本尊大日如来坐像
(快慶作)

御本尊は建久五年(1194)塔と同時期に制作され、像高百二センチ寄せ木造り表面に漆を塗って(金箔を張り)玉眼や、写実的な衣には切金文様が施され、又左肩からタスキ上の条帛(じょうはく)、衣のひだも洗練され、典型的な鎌倉様式の風格を備えた見事な像であります。  合掌

源頼朝 亀谷禅尼 供養塔

源頼朝 亀谷禅尼 供養塔
源頼朝 亀谷禅尼 供養塔
源頼朝 亀谷禅尼 供養塔
源頼朝 亀谷禅尼 供養塔

めかくし石

めかくし石
めかくし石

めかくし石
(平安朝時代)

目かくしして この石を完全に抱けば諸願成就と云う

めかくし石
めかくし石

若宮

若宮
若宮

若宮
建立 平成十四年十二月十五日
祭神に天照皇大神を拝し、大友皇子(弘文天皇)を祟む
壬申の乱の折、この地に葬られ、古来より寺僧により手厚く密かに供養されてきました
三十八所権現社が親神に当たります  合掌

若宮
若宮

芭蕉庵

芭蕉庵
芭蕉庵
芭蕉庵
芭蕉庵

月見亭

月見亭
月見亭
月見亭
月見亭
月見亭
月見亭
月見亭
月見亭

心経堂

心経堂
心経堂

心経堂
その昔、花山法皇が西国三十三所観音霊場を中興されてより壱千年の記念事業として長年にわたり納められた心経寫経を永久に保存するために建立されました。
約五・四メートル四方の方形造り、床面積三十三平方メートル総檜造り、壁柱は丹で塗られ、堂中央の台座に乗せられた八角輪堂の一面には如意輪観世音菩薩半跏像が安置され、残る七面に寫経が納められる
平成二年三月落慶   合掌

心経堂
心経堂

光堂

光堂
光堂
光堂
光堂
光堂
光堂
紫式部像
紫式部像

八大龍王社

八大龍王社
八大龍王社

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

八大龍王社

八大龍王社は龍池の中島に建てられた小さな社で龍王をお祀りしています。石山寺の歴海和尚(れっかいおしょう)がこの池のほとりの石に座って孔雀経を読むと、池の中から龍王たちが現れて和尚の経を聞き、経を読み終わると、和尚を庵まで送っていったと伝わっています。歴海和尚が座った石は「腰掛石(または尻掛石)」と呼ばれ、「石山寺縁起絵巻」に描かれたうっそうと木がおい茂る深い山中の様子は、現在も変わることはありません。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第二巻第六段)

八大龍王社 龍穴の池
八大龍王社 龍穴の池
尻掛石
尻掛石

柳島

柳島
柳島

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

柳島

承暦二年(1078)、本堂は火災に見舞われました。僧侶たちは慌てて大切な経典や仏さまを持ち出しています。混乱のなか、いち早く本堂を飛び出した御本尊さまが柳の木にとどまっておられることに気付いた僧は、こちらにお移り下さいと自分の袖を示しています。
残念ながら柳の木は残っていませんが、本堂や石段、露出する硅灰石、閼伽井、咲き乱れる椿など、現在とそれほど変わらない境内の様子が描かれています。
観音さまがとどまっておられた柳があった場所は、現在「柳島」と呼んでいます。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第四巻第五段)

柳島
柳島
柳島
柳島

天狗杉

天狗杉
天狗杉

石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺

天狗杉

石山寺屈指の学僧、朗澄律師(ろうちょうりっし)(1132~1209)は、平安末から鎌倉初期にかけて石山寺の一切経や聖教の整備に尽力され、自分の死後は鬼となって石山寺の経典・聖教を守ることを誓って亡くなられました。「石山寺縁起絵巻」では律師の死後、弟子の行宴が松の梢の上で金色の鬼の姿となった師を見たと記されていますが、これとは別にこの天狗杉の上に現れたとも伝わっています。

(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第六巻第二段)

天狗杉
天狗杉

密蔵院

島崎藤村ゆかりの家 密蔵院
島崎藤村ゆかりの家 密蔵院
藤村の遺跡 石山寺茶丈 「東池坊密蔵院」
藤村の遺跡 石山寺茶丈 「東池坊密蔵院」

藤村の遺跡 石山寺茶丈 「東池坊密蔵院」

石山寺東大門前左手駐在所の前方に当たる道路に面した公園内に藤村の詩碑があり、この辺りがもと茶丈の跡地で東池坊密蔵院の旧地である。
藤村は二十二歳明治二十六年五月のことである。
藤村文学を確立する上で重要な意味を持つ。
関西漂着。
その時石山寺に参詣し、ハムレット一冊を献じるそして二ヶ月に近い寄宿舎生活をこの茶丈の奥にて始める。
また石山寺を囲んで<源氏物語><芭蕉の幻住庵跡><瀬田の清流><石山の源氏蛍>等の詩情溢れる世界が傷心の藤村の心を和ませた。
関西旅立は教え子との愛の苦悩が直接の動機になっているとはいえ、敬愛する西行や芭蕉の如く旅をし足を休めたところがこの近江石山寺の「茶丈庵」である。
そこに青春時代の生き生きとした藤村の姿を見ることができる。

ことしほととぎす鳴く卯月の末っかたより旅の心やすめんとしばらく石山寺の茶丈を借りて日頃このめるところを擬す。(茶丈記)


閉門

こうして駆け足で石山寺の境内を回ってきたのですが、閉門時間を過ぎておりまして・・・。
追い出されるように東大門の脇から出ました。

後から大黒堂などに行き忘れていることに気が付きましたが、時間切れでは仕方ありません。
見どころたっぷりなので、また改めて来ることにしたいと思います。

門が閉じられている東大門
門が閉じられている東大門
滋賀県大津市石山寺1−1−1


復路

京阪石山寺駅まで歩き、JR石山駅に着いたのは17時過ぎ頃でした。
歩き疲れたので、何やら美味しい物を食べに行こうかと思って石山駅周辺を歩き、近江牛の焼肉食べ放題&飲み放題の店とか見つけたのですが、ちょっと胃がしんどいので、無難にお好み焼き屋さんへ。
テレビの相撲観戦をしてますと、稀勢の里が負けて、白鵬が勝って優勝してました。

食べ終わって、帰路につきます。
石山発18:28 → 大阪着19:13 (JR琵琶湖線新快速・播州赤穂行)

何とか席には座れましたが、大阪に着くまでずっと混んでまして、角ハイボールの缶を買ったのに、周りが気になって飲めず終い(苦笑)

締めに新梅田食堂街のセブンシーズで、一杯やりました。

 


ここまでお読み頂きまして、ありがとうございます。
ブログランキングに参加しています。お好きなバナーを押して頂けますと幸いです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 心理学へ
にほんブログ村 アニメブログ アニメ聖地巡礼・アニメツーリズムへ
にほんブログ村 アニメブログへ
にほんブログ村 旅行ブログ 遍路・巡礼へ
にほんブログ村 旅行ブログへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください